第二十六話 女たちの筆算工房
受講願い帳なのに、昨夕掲示板の前で炭筆を握っていた娘の名が一つもなかった。
同じ窓の下へ並んだ二つの机のあいだで、私は新しい綴りを開いた。筆算工房受講願い。紙はきれいだったが、中身が痩せている。九枚。昨夕、北市の掲示板前にいたのは十七人だった。共同竈の未亡人も、洗濯場上がりの女も、黒パンの籠を抱えた娘も、ここにはいない。
「止まっている欄は」
私が問うと、ミレイユが別紙をめくった。
「屋号か家印、それと見込差額です。名前までは書けても、その先で炭筆が止まっています」
願い札の下端には、震えた一画だけ残った紙が混じっていた。昨夜、あの娘が引いた線だ。
「工房へ入る前から、帳場の言葉を知っている者しか残れない形ですね」
向かいで収支束を見ていたレオンハルトが顔を上げた。
「願い札と同じか」
「はい。書ける手を増やすための工房なのに、入口がもう選別になっています」
私は九枚の願い札を重ね、欠けた八人ぶんの空きを指で押さえた。
「受講願いは聞き取りへ変えます。売っているもの、困る勘定、夕刻に止まるところ。それだけ先に拾う」
「差額は」
「こちらで書きます。最初から計算できるなら、工房はいりません」
レオンハルトは短くうなずいた。
「部屋は予定通り北棟でいいな」
「ええ。ただし長机と石板が足りません」
北棟の空き倉庫は、乾いた麻袋と古い木箱の匂いがした。窓は細く、昼でも隅が暗い。壁際へ寄せられていた机は六台。天板の反りが少ないものを選んでも、それだけだった。
リゼットが窓枠のひびへ指先を当てる。
「この寒さで子どもに炭筆を握らせるなら、昼のうちに終わる仕事しか残らないわよ」
私は床へ置かれた空き箱の数を見た。荷札用の薄板もある。机にならないことはない。
「机は箱で足せます。石板は」
扉の外で靴音が止まり、兵が二人、黒布で包んだ平たい束を運び込んだ。ほどかれたのは、縁の欠けた黒石板だった。兵舎の訓練で使う作戦板。角は擦れていたが、字を書く面はまだ白かった。
「余っていた」
レオンハルトはそれだけ言った。
余っていたのではない。昨夜のうちに集めさせ、洗わせたのだろう。石の表面に残る冷たさが揃いすぎている。
「十二枚あります」
ミレイユが目を丸くする。
「十分です」
私は石板を一枚取り、炭筆で三本の線を引いた。
朝入れ。
売れ。
残り。
「最初はこの三つだけで回します。黒パンでも、薪束でも、干魚でもいい。朝いくつ並べたか、日が落ちるまでにいくつ減ったか、最後にいくつ残ったか」
リゼットがすぐに乗った。
「釣り銭は別板ね。五枚で束、十枚で銀一。指で数えられる形にする」
「お願いします」
彼女は笑って、荷車番へ声を飛ばした。ほどなく銅貨の大きさに切った木片と、五つ刻みの浅い溝を持つ小板まで運ばれてくる。
「それと」
私は石板を置いた。
「習いだから無賃、はなしです。午後に札を書き、売上板を起こし、願い札を清書したぶんは仕事として払います」
リゼットの口元が面白そうに歪む。
「そこ、先に言うのは好きよ」
レオンハルトは壁際の古机へ手を置いたまま、私を見た。
「工房で今日必要な札を書くなら、それは習いじゃない。賃金を出せ」
短い声だったが、箱の上に置いた石板よりもまっすぐだった。
火鉢のそばで炭を寄せていた未亡人が、その一言で顔を上げる。扶助の帳面ではなく、働いたぶんが戻る帳面だと分かったのだろう。
昼過ぎ、共同竈の前へ聞き取り机を出した。願い札の代わりに、私は白紙の見取帳を開く。名、売る物、数が止まるところ。読み上げ役へ帳場補助の未亡人を二人つけた。
「屋号は要りません」
私がそう告げると、昨日の娘が母の袖から半歩だけ出た。
「名前が書けなくても、口で言ってください。違っていたら指で止めて」
最初に座ったのは、共同竈の火番をしている未亡人だった。
「朝、黒パンを十五置きます。昼までに七。そこから先、お釣りが混じると分からなくなるんです」
ミレイユがすぐに書く。十五、七。私はその横へ、残り八と置いた。
「今日はこれだけでいいです」
「それだけで?」
「はい。明日、火口の前でこの三つを自分で書きます」
次の娘は、売れ残りの干魚を布に包んできていた。三尾ずつ揃えるところまではできる。だが、銅貨二枚の品が四つ売れた時に、母へ渡すぶんと炭代を混ぜてしまうという。
リゼットが木片の数え板を娘の前へ滑らせた。
「五つずつ溝へ落としなさい。こぼれた端数だけ手で持てばいい」
娘の指先が、恐る恐る木片を動かす。
聞き取りが終わるごとに、ミレイユは工房の席順を書き換えた。読み上げが要る者、数字だけなら追える者、午後の清書から入れる者。帳場補助の女たちは、兵糧庫では荷数を読んでいた声で、今度は黒パンと干魚の数を読み上げる。
北棟の倉庫を開けた時、冷えていた部屋は夕方には声で埋まった。石板十二枚。箱机六つ。長机四台。火鉢二つ。窓際には、売上板の見本を立てる細い棚まで入っている。
「朝入れ、売れ、残り」
私は最初の石板へもう一度線を引いた。
「数字はきれいに書かなくていいです。三つの欄からはみ出さないこと。今日の売れ残りを明日の朝入れへ勝手に戻さないこと。それだけ守ってください」
共同竈の未亡人が、十五、七、とゆっくり書く。止まった指の横で、娘が残り八を写した。炭筆の先が少し欠ける。ミレイユが新しい一本を渡し、その代わりに古いほうで願い札の見本をなぞり始めた。
午後の後半には、札仕事を回した。共同竈の薪棚札。黒パンの値札。願い札の清書。北市掲示板へ吊るす売上板。出来高は一束ごとに数え、余剰還元帳の別紙へその日の手間賃を書きつける。拇印を押す指は、扶助の列に並ぶ時より少しだけ早かった。
「本当に払うんですね」
薪棚札を十枚書き終えた女が、半信半疑の顔で銀の細貨を見た。
「書いたぶん、読んだぶん、掲げたぶんです」
私が答えると、彼女は笑わずに銅貨を握り込んだ。その手の節が、兵糧庫の木箱を持つ時の形をしている。
日が落ちる頃、最初の売上板が戻ってきた。共同竈前の煮売り台、黒パン台、干魚台、古着台。朝入れ、売れ、残り。どれも三列で揃っている。だが、板の下端へ小さく足された数字があった。
「この追記は」
私が問うと、娘が石板を抱えたまま答えた。
「暮れの鐘のあとです。火を見て、もう少し買う人が来ました」
リゼットが別の板も覗き込み、口紅の端を上げた。
「黒パン台も同じ。夕刻のあとに四つ。干魚は三束。共同竈は煮売りが鍋一つぶん増えてる」
朝入れと日中の売れだけでは、足りない。市はもう、日のあるうちだけで閉じていなかった。
私は石板の下端へ新しく線を足した。
暮れ後。
帳簿魔法を薄く通すと、その欄だけがまだ灰色だった。嘘ではない。けれど、今の北市には正式な置き場がない数字の色だ。
「明日から、夕刻の売れを別に拾います」
私が言うと、レオンハルトが工房の入口から石板を見たまま問う。
「昼だけの市では、もう足りないか」
「はい。灯り代も、見回りも、売り台の置き方も、全部ないまま先に売れています」
彼は短くうなずいた。
「なら、次はそこだ」
共同竈の娘が、自分の石板の隅へもう一度炭筆を置いた。今度は一画では終わらない。拙い字で、自分の名を最後まで書き切る。横でミレイユが息を呑み、帳場補助の未亡人が小さく背を押した。
市場は、もう昼だけの場所ではない。
黒字を返すために開けた工房は、その日のうちに、眠らない売上の欄まで連れてきた。




