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白紙婚の監査令嬢は、帳簿魔法で辺境を黒字にする  作者: 小竹X


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第二十五話 余剰金の使い道

 余剰金の見込表なのに、使途願いの欄には北市の拇印が一つもなかった。


 同じ窓の下へ並んだ二つの机のあいだで、私は十日締めの収支束を開いた。公開入札へ切り替えた帳面と振替札の差額。北門で止めた偽見舞い荷の保管費戻し。魔導印の切れ目ありで差し戻した灯油樽の再納品分。冬季命綱費の別積みと帳場補助の賃金を先に抜いても、今朝の束には銀貨六十四枚と銅貨八十枚が白く残っている。


 初めて、止血した先の金だった。


 けれど、その下へ綴じた使途願いは痩せていた。北棟廊下の敷布替え。馬房の鐙革予備。評議室の暖炉枠修繕。どれも必要ではある。必要ではあるが、同じ三人の筆跡と印が順に並んでいる。北市の共同竈も、洗濯場の干し棚も、帳場補助へ入った未亡人たちの机も一行もない。


「足りないのか」


 向かいの机からレオンハルトが顔を上げた。夜のうちに片づけた査察束がまだ彼の右手に高く積まれている。彼は私の返事を待つ間に、冷えかけた茶杯を無言でこちらへ寄せた。


「逆です」


 私は見込表を彼の机へ滑らせる。


「余っています。けれど、届いていません」


 銀灰の目が、使途願いの束で止まった。


「屋敷の人間しか書いていないな」


「願いを書ける者しか、願いの欄へ来られない形です」


 ミレイユを呼ぶと、彼女はすぐに紙束を抱えてきた。余剰願いの見本帳。提出規定。必要記載欄。私はその三枚を並べる。


「家名、使用印、費目名、見積額。北市の露店や未亡人たちは、最初の欄で止まります」


 ミレイユが小さくうなずいた。


「今朝も、中庭の掲示板を見て戻った方が三人いました。金額の書き方が分からないから、と」


 レオンハルトは短く息を吐いた。


「金を戻す帳面で、戻す相手を絞っているのか」


「はい。黒字を作った手の一部が、まだ帳面の外です」


 昼前、執務室の長机へガレスとリゼットも呼んだ。私は見込表を中央へ開く。白い余剰欄は目を引くが、周囲の願い束が貧しい。


「全部しまっておく手もあるぞ」


 先に言ったのはガレスだった。革手袋を机へ置き、北の土塁の刻限表を横へ寄せる。


「春先は道が緩む。馬蹄も荷車の軸も減る。次の吹き返しで余剰なんぞすぐ溶ける」


「命綱費の別積みはもう立っています」


 私は冬季命綱費の束を指で押さえた。


「これは、その先へ回せるぶんです」


 リゼットが赤い爪先で願い束を弾く。


「でもその先が、屋敷の絨毯と馬具だけじゃつまらないわね。北市の女たちは、あんたたちが黒字だって聞いても、自分の炭箱に関係あるとは思わないもの」


「共同竈の煙道、割れたままだものね」


 ミレイユが口を挟んだ。


「帳場補助のおかみさんたち、帰りに北市で煮売りを手伝っている方が多いんです。窯が弱いと、夜まで火が持たないって」


 私は願い束を一枚ずつめくった。共同竈の修繕願いはない。洗濯場の干し棚もない。帳場補助用の石板もない。ないのに、必要な場所だけは頭に浮かぶ。帳場で読み上げ役をしていた未亡人のひび割れた指、売れ残りの黒パンを数え直していた娘の細い爪、釣り銭を木箱の裏へ線で刻んでいた北市の煮売り台。


「現物を見ます」


 私は願い束を閉じた。


「机の上だけで決めると、また声の大きい順になります」


 北市西通りは、昼でも冷えた鉄みたいな色をしていた。雪解けの泥が石畳の凹みへ黒く残り、共同竈の煙は低く流れる。窯口の左脇に、ひびが一本走っていた。火が強くなると、そこから白い息が漏れるのだろう。竈の前にいた未亡人が、帳場補助で使う丸印入りの布袋を腰から下げているのが見えた。


「壊れているのに、願いは出ていませんね」


 私が声をかけると、彼女は手を拭いて頭を下げた。


「出し方が、よう分からなくて」


 布袋から出てきたのは、半分までしか埋まっていない見本帳だった。名前の欄までは書けている。けれど費目名のところで炭筆が止まっている。


「窯のここを直せば、薪がいくら減るかまでは出せません。うち、帳場では読み上げだけで」


 横では十歳ほどの娘が、売れ残りの黒パンを三つずつ揃えていた。十五個あるのに、線は四本しか引かれていない。


「お釣りを間違えると、夜のぶんの麦が消えるんです」


 リゼットがしゃがみ込み、木箱の裏へ刻まれた短い線を見て鼻を鳴らした。


「商売を増やす前に、数える手を増やしたほうが早いわね」


 共同竈の向かいには、洗濯場上がりの女たちが薄板へ納品数を書こうとしていた。一本線は引ける。二本までは大丈夫。けれど桁が増えると、指が止まる。帳場補助で昼の半刻だけ数字を読めても、自分の売り物と釣り銭まで夜に数え切るには足りない。


 レオンハルトは窯のひびへ手袋の指先を当て、すぐに外した。


「屋敷へ戻る」


 短い言葉だったが、もう決める声だった。


 執務室へ戻ると、私は新しい帳面を一冊出した。表紙はまだ何も書いていない。ミレイユが息を呑む。


「新しい費目ですか」


「費目ではなく、返し方の帳面です」


 表紙へ題名を書く。


 余剰還元帳。


 その下へ、最初の規定を三行だけ置いた。


 余剰の出所を一行目に記すこと。

 使途は現物、人数、見込差額のいずれかで示すこと。

 願いは家印がなくても、実名と拇印、立会人一名で受けること。


 ミレイユがすぐに別紙へ清書を始める。掲示板用だ。ガレスは眉を寄せたままだったが、私が共同竈のひびと北市の売り台の線刻を並べると、腕を組み直した。


「守る金と、増やす金を分けるのか」


「はい。次の吹き返しに備える別積みは残します。そのうえで、黒字をまた次の黒字へつなぐ場所へ落とす」


 リゼットが笑う。


「帳面らしい贅沢ね」


 私は最初の頁へ金額を書いた。


 共同竈煙道修繕および薪棚増設 銀貨二十二枚。

 筆算工房準備費、石板二十枚、炭筆四十本、長机四台 銀貨十四枚。

 北市掲示板増設および願い札、拇印台、夜掲示用灯り 銀貨九枚。


 残りは雪解け予備として別積みへ戻す。使い切らない欄を残すほうが、次の願いを書き込みやすい。


「筆算工房」


 レオンハルトがその四字を読み上げた。


「そこへ最初に切るのか」


「黒字を一度返しても、数える手が少なければ、次も同じ顔ぶれが取ります」


 私は北市で見た木箱の裏の線を思い出した。


「願いを書ける人間を増やします。売る人も、雇われる人も、受け取る人も。そうすれば余剰欄は屋敷の中だけで回りません」


 レオンハルトはしばらく黙っていた。やがて、自分の印を私の書いた一頁目の下へ置く。


「工房の場所は、北棟の空き倉庫を使え」


 そのまま彼はミレイユへ視線を向けた。


「窓の修繕と火鉢の手配もだ」


「はいっ」


 返事が少し裏返る。ミレイユは頬を赤くしたまま、掲示用の見本札へ題名を書き写していく。


 夕刻、北市の掲示板へ最初の一枚を貼った。余剰の出所。戻す額。残す額。窯のひびへ入る石灰の量。石板の枚数。炭筆の本数。そこまで書いてから、願い札の下へ空欄をぶら下げる。


 家印不要。

 拇印可。

 字が足りない者は、夕刻の監査机で聞き取り可。


 共同竈の前で見かけた娘が、母親の袖を引いて掲示板を見上げていた。やがて母親が背を押すと、娘は炭筆を持ち、願い札の下端へ震える線を一本引いた。自分の名の最初の一画なのだろう。隣でミレイユが、しゃがんでゆっくり読み上げる。


「石板、二十枚。炭筆、四十本。長机、四台」


 娘の指先が、黒く汚れた。


 その汚れは、今日まで帳場の外に落ちていた余剰金より、ずっと先まで残る気がした。

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