第二十四話 離縁条項は無効です
離縁条項なのに、その一文だけ証人封の朱が途中で切れていた。
朝の机へ、三つの紙を並べる。婚姻契約書控え。レオンハルトが鉄箱から出した元の草案。昨夜のうちに礼拝堂の司記から取り寄せた婚姻届送達控え。窓から入る薄い光へ傾けると、送達控えの封だけが均一に赤く、今の契約書の五行目だけが途中で朱を噛んでいない。
「やはり、ここです」
私が指した先を、ミレイユが覗き込む。第七補給隊への優先充当。その末尾に続く、細い追記。
ただし当該仮勘定清算まで、妻よりの離縁申し出を留保する。
「昨日まで、支出先のほうばかり追っていましたけれど」
ミレイユの声は低い。
「離縁の文まで、一つながりで足されています」
「はい。しかも司記控えにはありません」
送達控えの条項欄は簡潔だった。夫家軍務勘定と妻持参金勘定を分けること。別居希望を妨げないこと。冬明けの離縁申し出を妨げないこと。そこまでで終わっている。第七補給隊も、仮勘定清算も書かれていない。
火鉢の上で温めた匙を、ミレイユが昨夜封じた寄進帳の背へそっと当てた。補修紙を留めていた膠がわずかに緩み、細い切れ端が浮く。白い繊維の強い紙。持参金支払台帳の振替付票と同じ紙質だ。しかも片端に、綴り紐の穴が一つだけ半分残っている。
「番号も見えます」
彼女が窓へ透かす。薄く、けれど確かに二十八の字が残っていた。
切れ端の裏には、押し潰された筆圧もある。
預り二十八。
不足七口。
慰撫帳へ充当。
婚儀翌日に消えた第二十八号付票は、婚姻契約の根拠葉ではなく、巡回慰撫費の穴埋め紙として偽帳簿の背に貼り直されていた。
「橋そのものが、最初から兵站へ渡っていません」
私は契約書の五行目へ指を置いた。
「持参金を第七補給隊へ入れたから離縁を留保する、ではない。先に巡回慰撫費の不足があって、その穴埋めに持参金の番号を流用した。順番が逆です」
扉の向こうで靴音が止まる。レオンハルトだった。彼は机の端へ送達控えを見下ろし、短く息を吐いた。
「王都側は、その留保条項でお前を帳場から外す気だったか」
「今日、たぶん言ってきます」
私は司記からの返書も横へ置いた。
婚姻届送達控えと相違する補記は、夫婦双方と証人の再封がなければ効力なし。
必要なのは理屈ではなく、机に置ける一行だ。王都は長い説明ほどねじる。
昼の査察机へ着くなり、アドリアンは封じた二冊へ目をやった。穏やかな笑みは崩さない。崩さないまま、先にこちらの席を減らしに来る。
「本日は婚姻書類の整理から再開しましょう。白紙婚は冬明けの離縁を前提とした暫定のご婚姻。Lady Serenaまで長くお疲れを重ねる必要はありません」
やはり来た。
「婚姻書類上、第七補給隊仮勘定の清算が済めば、お里へ戻る段取りも可能でしょう。兵站査察は閣下と王家会計局で」
「いいえ」
私はすぐ送達控えを机の中央へ置いた。
「離縁条項は無効です」
ミレイユの羽根ペンが止まる。ガレスが後ろで腕を組み直した。レオンハルトだけは動かない。
アドリアンの笑みが、ほんの紙一枚ぶん遅れた。
「無効、とは」
「婚姻届送達控えにない補記だからです」
私は草案、送達控え、現在の婚姻契約書控えを一列に並べた。
「元の草案にも、司記控えにもあるのは、持参金勘定を軍務と分けること、別居希望を妨げないこと、冬明けの離縁申し出を妨げないこと。この三つだけです」
次に、今の契約書の五行目を開く。
「こちらには第七補給隊への優先充当と、仮勘定清算まで妻からの離縁申し出を留保する一文が足されている。ですが証人封の朱はその一文を跨いでいません。婚姻届送達控えにも載っていない」
私は婚姻契約書控えを窓のほうへ少し傾けた。冬の斜めの光へ、朱の切れ目が細く浮く。四行目までは封の縁がまっすぐ続き、五行目の後半だけが紙肌へ沈んでいない。婚儀の場で読まれた文ではなく、あとから封の下へ潜り込ませた文の切れ方だった。
私は司記の返書をアドリアンの前へ滑らせた。
「再封なしの補記は効力なし。礼拝堂司記の返答です」
「地方司記の見解で、王都の婚姻実務を縛るのは」
「では、縛らない前提で伺います」
私は昨夜はがした切れ端を白布の上へ置いた。半端な穴、白い繊維、薄い二十八の数字。ミレイユがすぐ横へ、持参金支払台帳の付票綴りを開く。第二十七、欠、第二十九。
「これが欠けていた第二十八号付票の切れ端です」
アドリアンの目元が初めて冷えた。
「寄進帳の背へ補修紙として貼り込まれていました。裏の筆圧は『預り二十八』『不足七口』『慰撫帳へ充当』。婚儀翌日の持参金番号は、婚姻の清算ではなく、巡回慰撫費の不足穴埋めに使われています」
「断片だけで、そこまで」
「断片ではありません」
私は持参金支払台帳の欄外差し込みを開く。
「第七補給隊仮勘定へ三分の一相当、付票第二十八号参照。あなたが欠葉確認へ署名した箇所です」
次に偽の支払帳。
「不足七口、預り二十八より充当。昨夜まであなたが王都の説明資料として出していた箇所です」
最後に婚姻契約書。
「第七補給隊仮勘定清算まで、妻よりの離縁申し出を留保する。三つとも同じ穴へ向いています」
「しかも、あなたが六点目へ自筆で書いた査察目的は『兵站赤字補填の有無確認』でした」
私は査察受渡帳の頁を返し、彼の右跳ねの署名の下へ指を置く。
「夫婦の私的合意を見たいのではなく、兵站赤字へ持参金を流した証拠を探していた。なら今ここで見えているのは、私的合意ではなく、婚姻書類を使って兵站赤字と巡回慰撫費の穴埋めを正当化しようとした線です」
ガレスが低く言う。
「解隊済みの第七補給隊に、いまさら清算も何もない」
「はい」
私は頷いた。
「実在しない仮勘定を残し、持参金の番号だけをそこへ縛れば、妻は離縁を申し出られない。王都側は必要な間だけ大公妃の席を凍らせ、そのあいだ持参金を別口へ洗える」
アドリアンは返書を見もせず、声だけ整えた。
「仮に補記が後日であっても、ご夫婦の私的合意なら」
「私的合意なら、なおさら王家会計局の査察根拠にはなりません」
私は言葉を切らない。
「しかもレオンハルト様の元草案では、持参金勘定は軍務と分離、離縁申し出は妨げない。王都側が触ったのは、その逆です」
机の下で、火鉢の炭が一つ弾けた。
「ですから、王都はこの婚姻書類を使って私の席も持参金も動かせません。第七補給隊条項も、その末尾の離縁留保も、どちらも無効です」
数呼吸の沈黙のあと、レオンハルトが口を開いた。
「俺からも言っておく」
短い声だったが、机の端がわずかに鳴った。
「その条項は俺の意思でもない。妻の席を凍らせるための文なら、なおさら認めない」
彼は送達控えの横へ自分の印を置く。
「婚姻書類査察の六点目は、ここで終わりだ。王都が離縁を口実にセレナを帳場から外すことも、持参金勘定へ触ることも許可しない」
「冬明けにどうするかも、王都が決める話ではない」
アドリアンが初めて、その言葉へ即答できなかった。
ミレイユが静かに査察受渡帳を開く。私は欄名の横へ、新しく一行を足した。
婚姻契約書控え。
送達控えとの差異あり。
第七補給隊条項および離縁留保補記、再封なしにつき無効。
六点目査察終了。
「査察官殿」
私は筆を差し出した。
「本日の確認欄へ」
アドリアンは受け取らなかった。代わりに、笑みを薄く戻す。
「署名は控えます」
「結構です」
私はその下へ書く。
査察官署名拒否。
拒否もまた、机の上へ残る。
リゼットが後ろで小さく鼻を鳴らした。
「王都の善意って、札より逃げ足が早いのね」
アドリアンはそれにも返さず、封じた二冊と無効と記された受渡帳を見比べた。持ち帰るはずだった白紙婚の鎖は、もうこちらの帳面で切れている。丁寧な声を保つほど、今日は何も取れない。
「本日は退きましょう」
ようやく出たその一言を、ミレイユが受渡帳へ刻限つきで書き留める。退いた時刻まで数字になると、あとで「合意のため席を外した」とは書き換えにくい。
査察席が解けたあと、私は送達控えを閉じた。指先に残るのは、婚姻の重みより紙の乾きだった。けれど昨日までとは違う。王都が勝手に足した期限は、もう私の喉元に下がっていない。
「セレナ」
振り向くと、レオンハルトが自分の執務室の扉を半分開けていた。
「隣では足りない」
彼はそれだけ言って、窓際を見た。執務机の横に、まだ何も置かれていない空きがある。
午後、その場所へ私の机が運ばれた。隣室との境ではなく、同じ窓から雪明かりが入る位置へ。
中庭では、帳場補助たちが北市向けの新しい石板を立てていた。冬季命綱費で救った便、公開入札で浮いた差額、北庭の見舞受渡札で止まった名義貸し。その数字をまとめた余剰欄が、まだ小さいのに白く見える。
離縁留保の黒い一文が消えたぶんだけ、次はあの白い欄へ何を載せるかを決められる。
白紙婚を凍らせるための条項は、もうない。
なら次に数えるべきなのは、春までにどれだけ黒字を町へ返せるかだった。




