第二十三話 偽帳簿の告発
献納名簿なのに、寄進者十九名のうち押印の窪みは十二個しかなかった。
朝の査察机へ置かれた二冊の帳面は、どちらも新しい革で背を巻き直してあった。左が北巡施療献納寄進帳。右が四年前の巡回慰撫費支払帳。火鉢の熱が届く前から、革の継ぎ目だけが冷たく見える。帳簿魔法を薄く通すと、寄進帳の後半七名ぶんが黒く濁った。墨だけではない。名を書き足したあとで、急いで乾かした灰の色だった。
「王都側からの説明資料です」
アドリアンはいつもの薄灰の外套を整えたまま微笑んだ。
「第一王子殿下の善意が、辺境でどのように誤解されているか。ここで解いておきたくて」
「誤解、ですか」
「ええ。四年前の施療列は、夫人方十九名の献納を受けて動きました。薬包も包帯布も、記録上は正しく出ています。もし北の野戦所で不足が出たなら、それは受け取り後の仕分けか、現地の転記の問題でしょう」
ガレスの指が剣帯で止まった。私は先に査察受渡帳を開く。ミレイユが羽根ペンを構える。
「提出物の題名と、今日の提出目的をお願いします」
アドリアンは一拍だけ遅れて、帳面へ自筆を落とした。
北巡施療献納寄進帳。
巡回慰撫費支払帳。
提出目的、四年前施療不足に関する誤認の是正。
右へ跳ねる払いは、今日も同じだった。
「ありがとうございます」
私は寄進帳を開いた。一頁目の寄進者名は整っている。けれど、十番目から先で罫線の上へ乗る墨の重さが変わった。十三番から十九番は、どれも同じ呼吸で書かれている。別々の夫人の名ではない。一人の書き手が、あとから数だけ埋めた字だ。
「ミレイユ、招待札の名を」
彼女はすぐ横の綴りから紙束を出した。
「北巡施療献納茶会、招待十二名。実出席、聞取帳上では七名です」
私は寄進帳を閉じずに問う。
「アドリアン殿、十九名のうち、どなたが当日欠席なさいましたか」
「婦人方の体調やご都合までは、さすがに」
「では、代理寄進ですか」
「王都では珍しくありません」
珍しくない、という答えは便利だ。けれど数字は便利に曲がらない。
私は机の左端へ、四年前の招待札十二枚の写しを並べた。次に、砂糖菓子屋の未亡人から預かった席札の写し七枚。最後に、第一王子の礼状十九名。数の段差が、朝の光の中であまりに露骨だった。
「実出席七。招待十二。礼状十九」
私は一本ずつ指でなぞる。
「ここまでは前回の茶席で固めました。今日はそこへ、あなたの寄進帳を重ねます」
リゼットが外套の内側から小さな売掛控えを出した。青紐二巻、十二箱ぶん。四年前の北市染物屋の控えだ。私はそれを礼状の横へ置く。
「包み紐は十二箱ぶん。増えていません」
リゼットの紅い口元が、笑わずにだけ動く。
「名が十九なら、紐も箱も増えなきゃおかしいでしょう」
アドリアンは穏やかな顔を崩さないまま、視線だけを細くした。
「箱を共用した寄進もあります」
「共用なら、なおさら寄進帳の単位は箱ではなく口数で揃うはずです」
私は寄進帳の後半頁をめくった。寄進者十九名の名の下に、薬包五、薬包五、薬包五。細かく割った数字が並ぶ。だが席札の裏に残っていたのは、もともともっと大きな単位を書き、あとから五ずつへ崩した痕だった。
「この数字は、寄進の時についた数字ではありません。先に揃えた荷を、小分けに見せるための数字です」
ミレイユがすぐに次の紙を差し出す。控え室指図札。
東控え三番
薬包三十
包帯布二十反
献納札後付
私はそれを寄進帳の上へ重ねた。帳簿魔法が、三十と二十反の列を黒くつないだ。四年前の野戦所不足帳と同じ濁り方。善意の前に、まず軍需の数があった。
「こちらは会計方御用達の紙です。茶席の控え室から出た指図札で、先に薬包三十、包帯布二十反を揃え、あとから献納札をつけたと書いてある」
私はアドリアンを見た。
「寄進帳が本物なら、先にあるのは夫人方の名です。けれど実際は逆でした。先に荷があり、あとから名が乗った」
「世話役が現場で整理しただけでしょう」
「整理では増えません」
私は寄進帳の裏表紙をそっと押さえた。
「寄進者十九名のうち、十三番から十九番までには封蝋で札を受けた指の圧みがありません。押印の窪みも、頁をめくった時の癖もない。あとから机の上で、まとめて書かれた名です」
アドリアンの沈黙が半拍だけ伸びた。
その隙に、ガレスが低く口を開く。
「北の野戦所で足りなかった薬包は三十だ。待たされたのも、削られた名が二人あるのも、こっちはもう兵の証言で固めている」
私は右手の支払帳を開いた。こちらは寄進帳より古い紙で綴じてあるのに、中央の二枚だけ妙に新しい。支払先は北巡施療列の世話役、王都慈善係、包み直し手間賃。だが三つの欄へ流れる銀貨束の冷たさは一つだった。
「こちらも同じです。寄付口、軍需口、口銭。『巡慰三口』で一回の銀を三つの顔に割っている」
アドリアンが初めて眉を寄せた。
「商人の隠語を、王家会計局の正式帳面へ当てはめるのは乱暴でしょう」
「では、なぜ軍需荷の数量と同じ数が、善意の寄進帳へ並ぶのですか」
私は支払帳の右下を示した。
「薬包三十。包帯布二十反。寄進名は十九。けれど荷は増えていない」
レオンハルトがそこで一歩前へ出た。机の横へ立つだけで、空気の逃げ道が減る。
「ヴァルグレイ側の転記責任にする話ではないな」
アドリアンはすぐに視線を戻し、わずかに首を下げた。
「記録の整え方に不手際があったとしても、それは王都側の世話役の虚飾です。第一王子殿下の善意そのものを疑う理由には」
「あります」
私は言葉を切らずに返した。
「あなたが今日出したのは、施療不足が『辺境で取り落とした誤差』だと示すための帳面です。その帳面自体が、後付け名義で膨らませた偽帳簿でした」
査察受渡帳を引き寄せる。
「ミレイユ。補記」
彼女は震えない手で欄を引いた。
提出帳面に偽記載の疑義あり。
寄進者数十九名は、招待十二、実出席七、包み紐十二箱ぶん、控え室指図札の軍需数と一致せず。
善意名義後付けの疑いにより、原簿照合まで封緘保全。
羽根ペンの先が止まる前に、私は寄進帳と支払帳へ封蝋札を置いた。
「この二冊は返しません。王都原簿と照らすまで、査察受渡帳上で保全します」
「それは困ります」
丁寧な声だったが、その下で初めて硬さが出た。
「困るのは、辺境の不足をこちらへ被せるための帳面を持ち込んだ側です」
私は封蝋番号を読み上げた。
「本日以後、見舞い、献納、施療名義の荷はすべて北庭の荷受け棚で受けます。見舞受渡札へ実名、立会い、現物数、包み直しの有無を記し、その日のうちに掲示板へ荷数を出す。欠席名義は荷へ結ばない」
ガレスが即座にうなずく。
「北庭の棚は昼までに空ける。兵を二人つける」
リゼットもすかさず乗った。
「紐と札は私が揃えるわ。箱より名が多い遊びは、今日で終わり」
アドリアンの笑みはまだ消えていなかった。けれど目元だけが、外套の色と同じ薄灰に冷えている。
「王都へは、どう説明なさるおつもりで」
「あなたが今日、査察受渡帳へ書いた通りに」
私はページを返し、彼の自筆を見せた。
「四年前施療不足に関する誤認の是正。そのために提出された帳面に偽記載の疑いが出た、と」
彼が返す言葉を選ぶ間に、私は封緘前の寄進帳をもう一度だけ開いた。裏表紙の内側、背の綴じへ細い補修紙が貼ってある。そこだけ紙質が違った。会計方御用達の透かしではない。もっと薄く、婚姻書類の付票に使われていたものと同じ、白い繊維の強い紙。
端が少し浮いていたので、爪先でほんのわずかに持ち上げる。
下から現れたのは、短い覚え書きだった。
不足七口
預り二十八より充当
胸の奥で、冷たい金具がひとつ噛み合った。
預り二十八。
持参金支払台帳から消えた、あの付票第二十八号と同じ数字だった。
私は紙片を元へ戻し、何も言わずに寄進帳を閉じた。今ここで告げれば、アドリアンは次の紙まで隠す。なら、先に封じる。
「今日はここまでです」
封蝋を落とす音が、机の上で乾いて響いた。
偽帳簿の背の中で、欠けていた第二十八号が別の名で息をしていた。




