第二十一話 大公の古傷
野戦所の受領木札から、二人分の名前だけが削り取られていた。
四年前の束は乾きすぎて、指へ触れると粉を残す。私は窓際へ木札を並べ、削られた面へ爪を滑らせた。帳簿魔法を薄く通すと、木目の奥に消えた溝が灰色で浮く。ひとつは「薬包受取」。もうひとつは「包帯布受取」。どちらも末尾の名前だけが、刃物で浅く削られていた。
ミレイユが息を止める。
「札の役目だけ残して、受けた人だけ消しています」
私は横に置いた四年前の野戦所不足帳を開いた。三日目夜半、薬包不足三十、包帯布不足二十反。その欄外へ、別の墨で短い注記が差し込まれている。
王都施療列合流待ち。
「不足ではなく、待たされたのですね」
火鉢の向こうで古い革手袋を脱いでいたガレスが、低くうなった。
「その文言はあとから入った。前線の野戦所が、王都の施療列を待つ理由なんぞなかった」
私は削られた木札を裏返した。裏面には浅い切り欠きがひとつある。門外受取の札だ。野戦所の床で荷を受けたのではなく、途中の合流地点で受け渡す時だけ使う印だった。
「外で受ける予定に変えた者がいます」
扉の向こうで足音が止まった。
レオンハルトだった。彼は無言で私の机へ小さな鉄箱を置く。黒革で角を巻いた野戦所用の携行箱だ。錠前の擦れが深く、蓋の縁には古い黒ずみが残っている。
「その二枚は、俺が出した札だ」
短い言葉のあと、彼は自分で鍵を差した。硬い音がして蓋が開く。中には折れた筆、布で巻いた受領木札の束、そして薄い帳面が一冊だけ入っていた。大公印文書ではない。急ぎで綴じた現場帳だ。
私は最初の頁を開く。北の野戦所臨時受領控え。粗い字で、薬包六箱、包帯布四反、止血粉二袋。右端には、今の整った署名よりずっと荒い、左へ沈む払い。
レオンハルトの字だ。
「この便は、届かなかったのですか」
彼は少しだけ、左肩をかばうように外套を引いた。
「届いたことにされた」
ミレイユの羽根ペンが止まる。ガレスもそれ以上は急かさない。
レオンハルトは開いたままの帳面へ視線を落とした。
「北の野戦所へいた冬だ。三日続けて退けたあとで、薬包も包帯布も底を見せた。王都へ急報を出したら、返ってきたのは荷ではなく命令だった。第一王子の北巡施療列が来る。以後、施療物資の受け渡しは施療列経由でまとめろ、と」
私は不足帳の欄外注記を見下ろす。
王都施療列合流待ち。
あの一行は、ここから来ている。
「拒めなかったのですね」
「当時は、まだ王都が前線の不足を埋める気だと思っていた」
そう言って、彼は鉄箱の底から細い布包みを取り出した。ほどくと、中から白い木札が二枚出る。さっきの削られた札と同じ形だが、こちらは名前が残っていた。
ルカ。
ハイン。
「担架番でした。施療列との合流地点まで出した。箱を持ち帰らせるために」
ガレスの喉が詰まる音がした。
「二人とも、戻らなかったな」
「一人は凍え、もう一人は坂で矢を受けた」
レオンハルトの声は低いままなのに、帳面の紙だけがひどく乾いて見えた。
「施療列は予定より遅れた。しかも合流地点へは来ず、後方の村で幕を張った。王都の役人は、負傷兵をそこまで運べと言った。配る場を見せたいからだ」
火鉢の熱が足元にあるのに、指先が冷えた。施療のための荷ではなく、見せるための荷。帳簿の上でしか見えなかった黒い線が、ようやく人の声を持つ。
私は現場帳の次頁を開いた。受領未了のまま引かれた線。その脇へ、小さく書かれている。
予備箱開封見送り。施療列到着待ち。
「予備箱まで止めたのですか」
「王都の命令書には、施療列到着前の開封は後日精算の対象外とあった」
レオンハルトはそこで一度、呼吸を切った。
「俺が待てと言った。開ければ次便が止まると思ったからだ」
責める口調ではなく、ただ事実だけを机へ置く言い方だった。けれどその一言のほうが、言い訳よりずっと重い。
「その夜、前へ出た。退路の雪壁が崩れかけていて、担架を引く兵が足りなかった」
彼の左肩へ目がいく。外套の下で少しだけ布が引きつっていた。
「その時の傷ですか」
「そうだ」
短い返事のあと、彼は窓の外を見た。
「戻った時には、王都の施療列が村で幕を開いていた。薬包は『第一王子が届けた施療物資』になり、野戦所の不足は雪と混乱のせいにされた。あとで来た査察は、待たされた札も、戻らなかった担架番の名も、帳面から消した」
私は削られた木札へもう一度指を置いた。木の奥に残った溝が、灰色でかすかに光る。二人の名を消せば、待たせた相手も、戻らなかった理由も、王都の帳面には残らない。
「だから王都を信用しなくなったのですね」
「……ああ」
その肯定に、飾りはなかった。
私は帳面を閉じずに問う。
「では、白紙婚もその延長ですか」
レオンハルトの視線が、今度は私へ戻った。逃げないまま、少しだけ苦いものを飲み込む顔になる。
「婚姻を勧めてきた家は多かった。王都と繋がれば柔らかく見える、大公家の印象もましになる、持参金で北の不足も埋まると」
持参金。
その語が、机の上の別の帳面とまっすぐ繋がった。
「誰かを妻に迎えれば、その名も金も、同じ口へ通ると思った」
彼は鉄箱からもう一枚、羊皮紙の控えを出す。私が見た婚姻契約書より短い。整え前の草案だ。そこには、夫家の軍務勘定と妻の持参金勘定を分けること、別居の希望を優先すること、冬明けの離縁申し出を妨げないことが、簡潔な文で並んでいた。
「これが、最初の白紙婚の条項だ。縛らないための空欄だった。愛を与えないと先に言えば、せめて王都の舞台へ上げずに済むと思った」
私は草案の五行目へ指を滑らせる。ここには、あの黒く濁る補給隊条項がない。
「守るつもりの空欄だったのですね」
「言い方は最悪だった」
「ええ」
即答すると、彼の口元がほんの少しだけ歪んだ。笑いではない。けれど、否定を受け止める顔だった。
「ただ、次からは」
私は草案を閉じ、現場帳の上へ重ねる。
「守るための黙秘も、査察では不利です。話していただければ、消された名を戻せます」
しばらくの沈黙のあと、レオンハルトは鉄箱を私のほうへ押した。
「なら預ける。あの冬の紙は、全部」
鍵つきの箱が、机の上をわずかに滑る。
帳簿より重いものを渡された気がした。
私はすぐに新しい帳面を引き寄せた。表紙へ題名を書く。
野戦所不足聞取帳。
ミレイユが息を弾ませ、すぐ横へ定規を当てる。
「欄はどうしますか」
「不足物資、受領予定、実受領、合流地点、立会人、後日転記先。あと、削除札の復元名」
ガレスがうなずく。
「生き残りの担架番と看護兵を集める。木札を見せれば思い出す」
私は鉄箱の中をもう一度改めた。現場帳の下から、薄い香の移った小さな札が出る。金糸で縁を取った、茶会の招待札だ。
北巡施療献納茶会。
世話役名の欄に、王都の夫人たちの名が連なっている。その下に、北市の商会名が三つ。どれも、リゼットが嫌う旧顔だ。
「茶会」
私がそう呟くと、ミレイユが目を丸くした。
「施療列の荷を集めた場ですか」
「少なくとも、名目はそうです。女の手で包み、善意の札をつけて、王子の幕へ送った」
私は招待札を聞取帳の最初の頁へ挟んだ。
「男たちが覚えているのは、足りなかった夜です。けれど、誰の名で綺麗に包んだかは、茶の席に残ります」
ガレスが腕を組む。
「俺は茶の席には向かん」
「ですから、私が行きます」
言うと、レオンハルトがすぐこちらを見た。止める顔ではない。ただ、危険と必要を同じ重さで量る顔だ。
「一人では行かせない」
「ええ。監査室で開きます。こちらの帳面の上で」
外では乾いた雪が窓を擦っている。王都が善意の幕を張った時と、同じような音かもしれなかった。
私は削られた木札二枚を、聞取帳の番号札と並べる。ルカ。ハイン。薄く削られても、木の奥ではまだ名前の溝が消えていない。
白紙婚の空欄も同じだ。
勝手に書き足されたなら、元の線から戻せる。
「次は茶会です」
私はそう言って、聞取帳の頁を開いた。
「消された名と、綺麗に包まれた銀貨の持ち主を、同じ机へ座らせます」




