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白紙婚の監査令嬢は、帳簿魔法で辺境を黒字にする  作者: 小竹X


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第十九話 署名の癖

 アドリアンの署名だけ、文の終わりが紙の右へ逃げていた。


 昨夜の査察受渡帳を朝の光へ傾ける。欠葉確認の横に並ぶ彼の名。整った払い、揃いすぎた字間、そのくせ最後の一画だけが細く跳ねる。私はその下へ、持参金支払台帳の余白を書き写した紙片を重ねた。


 付票第二十八号参照。


 参照の「照」が、同じ角度で逃げている。


 火鉢の脇で温めたインク壺から、まだ細い湯気が立っていた。ミレイユが私の手元を覗き込み、すぐ息を止める。


「……同じです」


「似ている、ではなく?」


「文の終わりでいったん止めて、それから細く流しています。ここ、砂を払った跡まで」


 彼女の爪先が、受渡帳の紙肌をそっと叩いた。確かに、最後の一画だけインク砂が薄い。急いで乾かした字ではなく、細部を誤魔化したくて余計に整えた字に見える。


「四年前の査察差戻し控えを持ってきて。冬季命綱費が消えた頁の前後も」


「はい」


「それから、北方第七補給隊の解隊命令と、そのあとに来た王都書式の通達があれば全部」


 最後の一言で、戸口にいたガレスが振り向いた。


「ある」


 彼は昨夜の雪を外套の肩へ残したまま、執務机へ古い革袋を置いた。


「解隊の月に、変な紙が一通だけ来た。軍務局の青罫じゃない。会計の帳面みたいな白い紙だったから、俺も覚えている」


 革袋の紐を解く。最初に出たのは本物の解隊命令だった。厚い青罫紙、右下の余白は狭く、軍務局の丸印が深く沈んでいる。北方第七補給隊、雪害による再編につき解隊。角印とともに、兵站名義の失効日も明記されていた。


 次に出た一枚で、私の指が止まる。


 北方補給再編便宜命令。

 失効済みの旧第七補給隊印を、査察完了まで仮継続使用可。


 文面は穏当だった。けれど紙が違う。右下の余白が少し広い。透かすと、薄く王冠の輪が見える。会計方御用達の紙だ。軍務局の文ではない。


 ミレイユが四年前の差戻し控えを抱えて戻ってきた。冬季命綱費の欄へ挟まっていた細い紙片。地方裁量により過大、巡回慰撫費へ振替可。そこに書かれた「可」の払いも、紙の右へ逃げる。


 四枚を並べる。


 査察受渡帳のアドリアンの署名。

 持参金支払台帳の欄外差し込み。

 四年前の差戻し控え。

 そして、解隊後に届いた便宜命令。


 帳簿魔法を薄く通すと、どの紙も同じ場所で黒が沈んだ。筆を離す寸前、ためらいのように止まる一点。けれど魔法が返すのは癖までだ。名までは出ない。


「ガレス、この便宜命令は誰が持ってきたのですか」


「軍使じゃない。会計官の随員だった。道中で荷札も一緒に預かったと言っていた」


「印は」


「旧第七補給隊の角印を使え、だった。変だと思ったが、王都査察の年でな。北はどこも紙で殴られていた」


 だから古い角印が兵糧庫へ残り、解隊済みの名義が婚姻書類まで歩いてきたのか。


 ミレイユが便宜命令の下端をめくった。


「ここ、欄外に小さく文字があります。巡慰三口」


 昨夜まで気づかなかったほど小さい。けれど四年前の差戻し控えの裏にも、同じ三文字があった。巡回慰撫費の「巡慰」と、三口。


 持参金支払台帳の写しへ目を戻す。付票第二十八号参照。そのすぐ下、薄く削られたような跡がある。帳簿魔法をかけると、消しかけの灰が浮いた。


 巡慰三口。


 喉の奥が冷えた。


「第二十八号付票は、第七補給隊仮勘定へ直接つないだのではありません」


 私が言うと、レオンハルトが机の端へ手をついた。


「どこへ流した」


「いったん巡回慰撫費側の口へ寄せています。四年前に冬季命綱費を削った時と、同じ口です」


 兵站の金を慈善の顔へ塗り替える口。

 その口へ、私の持参金の三分の一まで滑らせた。


 レオンハルトの指先が、机の端で一度だけ鳴った。怒鳴らない男ほど、木は小さく鳴る。火鉢の熱より先に、その乾いた音が膝へ届く。


 昼の査察席は、昨日と同じ長机にした。ただし今朝から、査察受渡帳へ新しい欄を足してある。


 筆写者名。

 補記有無。


 原本を動かす前に、誰の手がどこへ入ったかを残すための欄だ。ミレイユが線を引き、欄名の下へ細く定規を当てていた。


 アドリアンは席につくなり、その新しい欄へ目を落とした。


「ずいぶん、帳面がお好きなのですね」


「書き足された一行が、冬を削りますので」


 私は昨日までの柔らかい応対をやめなかった。やめないまま、三枚の紙を彼の前へ置く。


「こちらへお名前を。今日ご覧になる原本の筆写者名と、補記の有無です」


「査察官本人の筆写者名まで?」


「昨日の時点では要りませんでした。今日から要ります」


 彼は少しだけ笑った。拒めば拒んだ形が残る。だから銀軸の筆を取り、いつものように整った字で名を書いた。


 最後の一画だけが、やはり右へ跳ねた。


 私はその乾きを待たず、四年前の差戻し控えを隣へ滑らせた。


「同じですね」


 アドリアンは答えない。代わりに、視線だけが紙の端をなぞる。


「四年前、冬季命綱費を巡回慰撫費へ振り替えた差戻し控え」


 次に、解隊後の便宜命令を置く。


「二年前、失効済みの第七補給隊印を仮継続使用可とした便宜命令。軍務局紙ではなく、会計方御用達の紙です」


 最後に、持参金支払台帳の写しを開いた。


「そして婚儀翌日の欄外差し込み。付票第二十八号参照。その下から消しかけの『巡慰三口』が出ました」


 ガレスが無言で本物の解隊命令を机へ置く。青罫紙の重さだけで、偽物の白さが浮いた。


「軍務局は、こんな紙を使わない」


 低い声だった。


「解隊後に旧印を継続しろとも書かない」


 ミレイユが差戻し控えと便宜命令を窓へかざす。どちらにも、王冠の透かしが鈍く浮く。会計方御用達。兵站の現場へ入るはずのない紙だ。


 アドリアンはそこでようやく笑みを整え直した。


「宮中では似た書風を教えます。筆癖だけで、私へ昔の控えを書く役を被せるのは危うい」


「ええ。ですから、筆癖だけではなく紙と経路を見ています」


 私は便宜命令の下端を指した。


「軍務局ではない紙で、会計官の随員が運び、冬季命綱費を消した差戻し控えと同じ『巡慰三口』を持っている。この口を経た金が、四年前は辺境の冬を削り、婚儀翌日は私の持参金に触れた」


 私は受渡帳の新しい欄へ記す。


 婚姻書類原本。

 補記有。

 筆写一致につき、説明完了まで閲覧停止。


 アドリアンの視線が初めて受渡帳へ落ちた。柔らかい顔のまま、喉だけが一度動く。


「査察を妨げるおつもりですか」


「逆です」


 私は筆を置いた。


「曖昧なまま進めないだけです。説明がつくなら、写しから再開できます」


 レオンハルトがその一行の下へ、短く許可を書いた。


 原本停止。写しのみ許可。


 それだけで十分だった。立会いの兵が婚姻書類の束を一歩ぶん後ろへ引き、ミレイユが灰糸札を掛け直す。六番原本停止。王都側随員の前で札の文言まで読み上げられると、ただの机上判断ではなく、返却条件そのものになる。紙の位置が変わっただけで、机の主導権も移る。


 アドリアンはそれ以上何も言わなかった。言えば、今度は「巡慰三口」の説明まで要る。


 査察席が解けたあと、私は便宜命令の端をもう一度指でなぞった。小さな三文字。帳場の整理番号ではない。口銭の「口」だ。金の通り道を隠す商いの印に近い。


 しかも紙の左端には、綴り紐ではなく、横へ引き剥がした薄い膠の筋が残っていた。帳面へ挟まる前、荷札か包み紙として別の束へ貼られていた跡だ。官文だけで歩いた紙ではない。


「ミレイユ、四年前の巡回慰撫費の支出束と、王都便の納品控えを集めて」


「はい」


「リゼットにも使いを。市場でこの『三口』が何を意味するか、商人の目で見てもらいます」


 銀貨は帳面から消えるのではない。

 ちゃんと道を持っている。

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