第十七話 王都から来た微笑み
王都から届いた査察通知は、添付目録だけが一枚足りなかった。
昼前の机に置いた封筒は、雪水で少しだけ角が波打っている。厚手の上質紙、王家会計局の青い封蝋、第一王子の巡回使節を示す細い金線。見た目だけなら、非の打ちどころがない。
けれど通知本文の末尾には、確かにこう書かれていた。
添付目録六葉。
ミレイユが一枚ずつ数えた紙を、もう一度並べ直す。
「兵站支出総覧、北門通過帳、印台帳控え、公開入札記録、御用達旧契約の写し……五枚です」
「ええ。六ではありません」
私は通知文の下段へ指を置いた。帳簿魔法を薄く通すと、数字の六だけが、他の文字よりわずかに重い色で残る。ただの書き損じではない。
レオンハルトが私の肩越しに紙を見た。
「何が欠けている」
「前回査察の指摘事項か、今回の追加提出目録です。どちらにしても、向こうは最初から数を誤魔化すつもりでいます」
四年前に消えた冬季命綱費。その年に来た王都査察。
欠けた一枚は、古い削除線へつながる紙だ。
ミレイユが喉を鳴らした。
「もう来るんでしょうか」
「本日中だ」
レオンハルトは短く言って、通知の裏へ刻限を書いた。正午着、査察官一行六名。到着予定は三つ鐘半。準備時間は長くない。
「帳面は渡さない」
「いいえ、渡します」
二人の視線が私へ集まる。
「ただし、向こうの好きな形では渡しません」
私は新しい帳面を一冊引いた。北門通過帳より小さく、持ち運びしやすい横長の紙束だ。表へ太い字で書く。
査察受渡帳。
「原本も写しも、受け渡しはすべてここへ通します。冊数、題名、封蝋番号、受渡刻限、立会人、返却予定。どれか一つでも欠けたら渡しません」
ミレイユの目がすぐ動いた。
「控えは二通ですね」
「ええ。一通は先方へ、一通は手元へ残します。番号も振りましょう。冬季命綱費と同じです」
紙の束が増えるのは面倒だ。けれど、曖昧に渡した帳面は、戻るころには別の意味を背負わされる。
レオンハルトが頷いた。
「必要な人間だけ集めろ」
そこからは早かった。ミレイユが欄を引き、私は提出候補の帳面へ通し番号札をつける。兵站支出総覧は一番、北門通過帳は二番、印台帳控えは三番。公開入札記録と旧御用達契約写しまで五番で止めたところで、あえて六番を空欄のまま残した。
欠けた一枚の席を、先に作るためだ。
ガレスは査察立会いの兵を二人だけ選び、帳場補助には帳面の持ち出し順を読み上げる役を振った。中庭の長机には、原本、写し、受渡帳、封蝋台、刻限札が一直線に並んでいく。見た目は穏やかな迎えの支度に見えるだろう。だが机の上では、どの紙も勝手には歩けない。
三つ鐘を少し回った頃、王都の馬車が屋敷前へ着いた。
最初に見えたのは、雪の上でも汚れのない薄灰色の外套だった。襟元の毛皮まで整いすぎていて、この北境の風に一度も当たったことがないと分かる。男は手袋を外し、柔らかな笑みのまま一礼した。
「お初にお目にかかります。王家会計局査察官、アドリアン・セルヴァンと申します」
年は三十前後。明るい栗色の髪を撫でつけ、声までよく通る。優しげな目元だ。街で見れば、子どもへ菓子を配る貴族に見えただろう。
「第一王子殿下が、辺境のご苦労をたいへん案じておいででして」
その言葉と同じ柔らかさで、彼の視線が中庭の帳場机を撫でた。札をつけた帳面、封蝋台、立会人の椅子。笑みは崩さないまま、値踏みだけが先に入ってくる。
レオンハルトが一歩も引かずに名を返すと、アドリアンは私へ向き直った。
「こちらが奥方様ですね。長旅のお疲れもまだ残るでしょうに、寒い土地の帳場などご覧になって」
気遣う口調だった。けれど、最後の一言だけが薄く滑る。
帳場など。
「妻はこの査察に立ち会う」
レオンハルトが言うと、アドリアンは少しも慌てず、むしろ微笑みを深くした。
「もちろん。ですが、煩雑な数字のやり取りは私どもでお引き受けできます。奥方様にはご無理なく、暖かい部屋でお待ちいただいても」
ミレイユの筆先が、机の端で止まった。
私は受渡帳を閉じずに答える。
「お気遣いありがとうございます。ですから、無理のないように手順を整えておきました」
長机の中央へ、査察受渡帳を開いて置く。
「今回の受け渡しは、すべてこちらへ記録します。題名、冊数、封蝋番号、受渡刻限、立会人、返却予定。写しとの照合もその場で済ませます」
アドリアンの笑みが、ほんのわずかに遅れた。
「慎重でいらっしゃる」
「通知に『添付目録六葉』とありましたのに、届いたのは五枚でしたから」
その一言で、空気が変わった、とは書かない。
変わったのは、アドリアンの右手だった。外した手袋を持つ指先だけが、一度きつく揃う。
「道中で紛れたのでしょう。よくあることです」
「王家会計局の封筒で、ですか」
私は受渡帳の六番目の空欄を指した。
「ですので、こちらで欠落がない形へ直します。査察官殿が本日必要とされる六点目を、ここへご記入ください」
空いたままの欄は、雪の上の踏み跡みたいに目立った。欠けているのは紙一枚なのに、こちらが黙れば向こうの都合のいい言葉で埋められる。最初にその余白へ名を置かせなければ、査察は到着した瞬間から相手の形になる。
リゼットなら、ここで値札を上げる顔をしただろう。
私はただ筆を差し出した。
アドリアンは受け取らない。
「まずは兵站支出総覧と北門通過帳を」
「承ります。では一番、二番から」
ミレイユが読み上げ、帳場補助が原本と写しを並べ、立会いの兵が封蝋番号を復唱する。受渡刻限、返却予定、アドリアン側随員の署名欄まで埋まってから、ようやく帳面が一冊ずつ渡る。
査察官の後ろに立つ若い書記が、露骨に眉を寄せた。もっと簡単に持っていけると思っていたのだろう。だがアドリアンだけは笑顔を崩さない。むしろ、よくできた余興を見るような顔で受渡帳を眺めている。
「なるほど。辺境では、帳場もずいぶん厳重なのですね」
「冬は、足りなくなってからでは遅いので」
「そうでしょうとも」
彼はそこで、ようやく筆を取った。
細い銀軸の筆先が、六番目の欄へ迷いなく滑る。
婚姻契約書控え。
持参金支払台帳。
私はその文字を見た瞬間、喉の奥が少しだけ冷えた。やはり兵站だけではない。王都が取りに来たのは、四年前の削除線の先と、私の結婚そのものだ。
ミレイユが息を呑む気配が、隣で小さく震えた。
アドリアンは笑ったままだ。
「辺境の赤字は、家政と兵站と婚姻条件が複雑に絡みますから。公平を期すためです」
公平。
その言葉の下で、六番目の欄だけが黒く見えた。
「承りました」
私は筆を取り返し、六番の右端へ条件を書き足す。
大公妃立会い。
原本開封は同席時のみ。
アドリアンの笑みが、今度は一拍ぶん止まった。
「奥方様まで、そこまでなさる必要は」
「必要です」
短く切ると、彼は初めて私を値踏みではなく障害として見た。
それでも次の瞬間には、また柔らかな顔へ戻る。
「よろしいでしょう。透明性は、殿下もお喜びになります」
署名欄へ置かれた彼の筆先は、文の終わりだけわずかに右へ跳ねた。
穏やかな笑みの下で、その癖だけが紙を掻くみたいに残る。
六番の帳面束を取りに、私は自分の机へ向き直った。
婚姻契約書の控えと、持参金支払台帳。
王都の査察官が、最初の日にそこを欲しがる理由は一つしかない。
微笑みの形をした手が、もう白紙婚の条項へ触れに来ていた。




