第十六話 命綱費の空欄
冬季支出表の兵站欄に、命綱費だけがなかった。
昨夜の緊急便の控えは、まだ机の端で湿っている。夜運び料二十四枚、河岸路護衛の温麺代十二枚、浅い橇の板張り替え見込み十八枚、帳場補助の延刻賃金八枚。どれも夜を越すために払った金なのに、振り分け先は雑費、炊き出し、馬具修繕、臨時賃銀へばらばらに押し込まれていた。
ミレイユが支出表を覗き込み、唇を噛んだ。
「これだと、第五兵糧庫の炊き出しだけ急に膨らんで見えます」
「第三兵糧庫の灯油もです」
私は昨夜の控えを三枚並べた。白尾見張小屋への先出し、北の土塁への河岸路便、二本杉で止まった本来便の保全費。帳簿魔法を薄く通すと、散った欄どうしが青い糸でつながる。紙の上では別々でも、やっていることはひとつだ。
命を切らさないための支出。
そこへ、古株の会計吏が帳面束を抱えて入ってきた。昨日、扶助帳の欄名を書き換えた時に渋い顔をしていた男だ。
「奥方様、夜の支出をひとまとめに立てるのはお勧めしません」
机へ置かれた指が、命綱費の空欄を避けるように止まる。
「見える赤字になります。今はやっと、倉庫の数字が締まり始めたところです。雑費へ落としておけば、年次帳の見た目は荒れません」
見た目。
その言葉だけで、昨夜の受領控えの角印が紙の上でやけに冷たく見えた。
「昨夜、北の土塁の火鉢が消えていたら」
私が問うと、会計吏は答えなかった。
「灯油半樽を通すために払った夜運び料は、雑費でしょうか。護衛の温麺は炊き出しでしょうか。帳場補助が十の鐘を回っても受領欄を埋めた賃金は、臨時の遊びでしょうか」
ミレイユが三枚の控えをめくり、余白へ小さく同じ印をつけた。
「全部、緊急便欄から始まっています」
「ええ」
私は支出表の中央へ、新しい紙を重ねた。
「なら、費目もひとつに戻します」
評議室までは要らなかった。執務室の隣の長机へ、必要な人間だけ集めれば足りる。レオンハルト、ガレス、ミレイユ、古株の会計吏、それに昨夜遅くまで残っていた帳場補助二人。リゼットも、浅い橇の板見本を脇へ立てて入ってきた。
私は空欄のある支出表を机の中央へ置いた。
「昨夜使った金を、今日から『冬季命綱費』で立てます」
ガレスが眉を上げる。
「命綱費」
「路線板の灰札が立った時、見張小屋から理由つき請求が来た時、北門通過帳へ緊急便欄が立った時。この三つのどれかが出たら使える費目です」
私は昨夜の控えを順に指した。
「対象は、先出しの灯油と鍬、夜運び料、護衛食、橇の応急修繕、帳場補助の延刻賃金。普段の補給と混ぜません。受領控えと魔導印の切れ目なしが戻るまで、一枚の束で追います」
古株の会計吏が顔をしかめた。
「そんな欄を立てれば、冬は毎月赤字に見えます」
リゼットが横から薄い板を鳴らした。
「見えるなら結構。見えないまま荷を止めるほうが、私には高くつきます」
真紅の口元が、いつものように商売の角度で笑う。
「夜運びは馬も人も減りますし、橇の板も割れやすい。いままでみたいに帳面の隅で曖昧にされたら、次に誰も請けません。費目が立つなら、こちらも夜運びの定値を出せます」
彼女は紙を一枚差し出した。
河岸路夜運び、一樽まで銅貨二十四枚。
護衛帯同時は一人につき温麺代三枚。
浅い橇の板張り替え、損耗に応じて十二から十八枚。
数字が最初から並んでいるぶん、言い逃れの余地がない。
ガレスも続いた。
「兵の側も同じだ。夜に人を出せば、火鉢番を余分に回す。雪堀りなら縄も鍬も減る。今までそいつを炊き出しや雑修繕へ押し込んだから、現場の請求がいつも後ろめたくなった」
長机の端で、片腕の元兵が黙ったまま自分の指先を見た。昨夜、北の土塁への受領読み上げを最後まで止めずにやった男だ。
「……欄があれば、先に言えます」
低い声だった。
「今までは、余計な金を使う顔になるのが嫌で、足りなくなってからしか紙を回せませんでした」
その隣で、洗濯場上がりの未亡人が小さく頷く。火鉢の炭を扱っていた指だ。
「遅くまで残った賃金も、あるなら受け取りやすいです。扶助のついでみたいに手渡されるより」
雑費へ沈めるたび、必要な側が頭を下げる。
その形が、ずっと続いていたのだ。
私は古い冬季支出表をもう一冊開いた。三年前、四年前、その前。灯油、炊き出し、馬具修繕、雑費。どれも冬だけ不自然に膨らみ、春になると何事もなかったように痩せている。
「見えているのに、欄だけないんです」
私が言うと、ミレイユが古い帳面の下段を指した。
「……あ」
四年前の紙だった。右下の余白がいまより狭い、まだ御用達の紙が揃っていなかった頃の帳面。その兵站欄の下に、一度だけ細い文字が残っている。
冬季命綱費。
だが横線で消され、その上から雑費へ矢印が引かれていた。
古株の会計吏が息を詰める。
「前は、あったんです。王都の査察が来た年に消えました。見栄えが悪い、地方裁量が広すぎる、と」
だから欄名ごと忘れたのか。
忘れたふりをしたのか。
私は消された文字の上へ指を置いた。帳簿魔法は、薄い灰ではなく、底の深い黒を返した。
「戻します」
その一言で、部屋が静かになった。
誰の喉が鳴ったのかまで聞こえそうだった。
レオンハルトがそこで紙を取った。いつもなら私に説明を続けさせるところだが、今日は違った。彼は空欄の上へまっすぐ筆を置き、短く書いた。
冬季命綱費、設置を許可。
「北境で夜を越す金を、雑費に沈めるな」
それだけ言って、彼は署名欄の一番上へ自分の名を書いた。私の確認印を置く余白が、その下にきちんと残っている。
ミレイユがすぐ新しい見本帳を起こした。項目は六つ。先出し、緊急便、護衛食、路上修繕、延刻賃金、保全待機。北門通過帳の緊急便欄と同じ番号を振り、受領控えと魔導印の印台帳を横へ束ねる。帳場補助の延刻賃金は、その日のうちに炊き出し小屋脇の机で手渡し、受領拇印を残す。
リゼットは夜運びの定値表を添え、ガレスは路線板の灰札に「命綱費対象」の小さな木片を掛けた。片腕の元兵は、読み上げ用の札束を受け取り、未亡人たちは延刻賃金の受け取り欄を指でなぞった。紙の中だけだった金が、ようやく寒さのある場所へ戻っていく。
昼前には、北門詰所と中庭の帳場へ同じ紙が貼られた。
冬季命綱費。
命を切らさないための支出。
炊き出し小屋の脇では、昨夜ぶんの延刻賃金が小皿へ分けて置かれた。銅貨八枚。片腕の元兵が受領欄へ拇印を残し、洗濯場上がりの未亡人は受け取ったあとで、もう一度だけ費目表の「延刻賃金」を見た。扶助のついでみたいな渡され方ではなかった。紙にも皿にも、同じ名前が載っている。
北の土塁から戻った兵が、その紙の前で足を止めた。昨夜の受領控えを書いた男だ。手袋を外した指で、護衛食の欄を確かめている。
「これなら、灯りが細る前に紙を回せます」
誰へでもなく言ったその声に、帳場補助の未亡人が「はい」とだけ返した。二人とも、前みたいに周りを窺わなかった。
午後、私は四年前の帳面をもう一度開いた。消された命綱費の次頁に、転記先があるはずだった。
あった。
削られた額とぴたり同じ数字が、別の費目へ移っている。
第一王子巡回慰撫費。
右下の余白が、不自然に広い。会計方御用達の見本帳と同じ癖だった。
帳簿魔法を通した指先の下で、その転記線だけが黒く沈んだ。




