第十話 兵糧庫の鼠
戻入簿が一冊、棚から消えていた。
第三兵糧庫の帳場は、粉の匂いが鼻の奥へ残る寒さだった。昨日の夕刻、レオンハルトの命で正門は封じ、見張りは二重にしてある。扉の封蝋は割れていない。窓の鎹も凍りついたまま。なのに棚には、四冊あるはずの綴りが三冊しかなかった。
「入庫簿、出庫簿、行き先札綴り……戻入簿だけありませんね」
私が言うと、帳場頭の男が喉を鳴らした。
「古い帳面です。鼠に齧られて、処分したのかと」
棚板の中央を指でなぞる。そこだけ粉埃が薄く、四角く木の色が残っていた。今朝まで、そこにあった形だ。
「都合の良い鼠ですね。昨日までの綴りだけ食べて、棚の跡まで残していった」
男は目を逸らした。
レオンハルトが短く言う。
「続けろ」
私は帳場を出て、庫内へ入った。石造りの床は凍えるほど硬く、積まれた小麦袋の肩に薄い霜が載っている。袋口の麻糸には青い封蝋の欠片が残り、側面には白いチョークで「乾燥戻し」と書かれた札が下がっていた。
「戻し入れの袋です」
帳場頭がすぐに言った。
「雪道で濡れた荷を、いったん倉へ戻して乾かしておりまして」
私は一番手前の袋へ膝を折った。布地を押す。冷たいだけで、湿っていない。袋口の糸も乾いている。濡れた麻なら、結び目の根元がもっと痩せる。
「いつ戻しましたか」
「今朝です」
「どの便が」
「北西と河岸の……」
そこでガレスが口を挟んだ。
「戻るわけがない。北西便は朝の鐘で出たばかりだ。河岸も同じだぞ」
帳場頭の顔色が変わる。
私は札を裏返した。番号は「戻一一七」。そのまま帳場へ向かう。
「ミレイユ、第一兵糧庫と第五兵糧庫から運ばせた振替控えを」
「はい」
彼女は毛糸手袋の指先で紙をめくり、すぐに一枚を抜いた。
「これです。第一兵糧庫でも、今朝の『振替一一七』が使われています。数量は十二袋。行き先は、第三兵糧庫」
もう一枚。
「こっちは第五兵糧庫。『仮戻一一七』で八袋。やっぱり第三兵糧庫です」
同じ番号。同じ朝。同じ行き先。
私は三枚の控えを床の上へ並べた。帳簿魔法に触れた列が、鈍い黒でつながる。数字そのものより、欄同士の噛み合わせ方が濁っていた。
「一つの不足を、一つの倉庫で隠していません」
私は第三兵糧庫の出庫欄を叩いた。
「ここで抜いた分を、第一と第五から仮の振替で埋める。監査の目が向いた倉庫だけ、夜のうちに袋を借りて帳尻を合わせる。だから路線ごとに不足が出ても、朝の在庫だけ見れば大きく減っていないように見える」
ガレスが眉間に皺を寄せた。
「倉庫同士で貸し借りしているってことか」
「紙の上では。実際の荷は、その時々で動かしたり、動かさなかったりです」
私は「乾燥戻し」の札を指で弾く。
「濡れていない袋を乾燥戻しにする。戻っていない便を戻したことにする。兵糧庫の鼠は一匹ではありません。巣がつながっています」
レオンハルトが帳場頭を見た。
「誰の指示だ」
「わ、私は振替札を書いただけです。夜に帳場同士で数字を合わせろと……古くから、冬場はそうしてきたと……」
「誰がそう決めた」
男は唇を噛んだ。そこへミレイユが、帳場机の引き出しを押し込んだまま眉をひそめた。
「奥様、この引き出し、奥まで入っていません」
彼女が底板を叩くと、軽い空洞音が返った。
「下が、浅いです」
私はすぐに身を寄せた。底板の端に爪を掛ける。木片は簡単に浮いた。中から油布に巻かれた薄い綴りが出てくる。
戻入簿。
帳場頭の肩が、目に見えて落ちた。
頁を開く。昨夜、今朝、昨朝。その前も。第三兵糧庫から各路線へ出た袋数と、同じ数字が別の倉庫から「仮戻し」として流れ込んでいる。しかも備考欄には、小さな古い角印が押されていた。
北方第七補給隊。
紙の端に残った印影は薄い。それでも見間違えようがなかった。二年前に解隊したはずの名前。婚姻契約書の五行目で見た、あの死んだ支出先と同じものだ。
「……またですか」
言葉が、思ったより低く出た。
レオンハルトが私の手元を見る。
「知っている印か」
「ええ」
私は綴りを彼へ向けた。
「もう存在しない補給隊です。婚姻契約書の改竄でも使われた名でした」
ガレスが舌打ちする。
「死んだ隊を、まだ倉庫で歩かせてるのか」
「帳簿の上では便利なのでしょう」
存在しないものは、飢えない。寒がらない。抗議もしない。だから数字を吸わせる器にされる。
私は頁をめくり続けた。備考欄の角印は、第三だけではない。第一、第五、第二。倉庫ごとに筆跡は違うのに、印の置き方だけが同じだ。右下へ半分だけ重ねる癖まで揃っている。
「帳場ごとの独断ではありません」
私は綴りを閉じた。
「書き方が統一されすぎています。誰か一人が型を作り、各兵糧庫へ回した」
「本丸は別にいるわけだ」
レオンハルトの声に、もう迷いはなかった。
「はい。ただ、帳簿魔法でも名前までは出ません。見えるのは、どの欄が嘘を受け持っているかだけです」
少しの沈黙のあと、彼は頷いた。
「なら嘘の欄を全部潰す」
その一言で十分だった。
「ガレス」
「いる」
「本日以後、兵糧庫間の夜間振替を全面停止。第三、第一、第五、第二の側門と荷車口を封鎖しろ。荷の移動は昼のみ、兵の立ち会い付きだ」
「はっ」
「ミレイユ」
「はい」
「全兵糧庫の入口へ石板を掛けさせろ。朝と夕の在庫数、出庫数、戻入数を、その場で書かせる。書いた人間の名も残せ」
「できます」
私は続けた。
「袋は倉庫印だけでは足りません。行き先ごとに色紐を変えます。北西は青、河岸は赤、南斜面は白。戻し入れは濡れた布地と現場責任者印が揃わない限り認めない。空袋の返却数も、今日から兵の名簿側で持ってください」
ガレスが頷く。
「そっちは俺がやる」
帳場頭がようやく声を絞り出した。
「そんな細かいことをしたら、回りません……冬場の兵站は、もっと大雑把に」
「大雑把にした結果が、これです」
私は油布の戻入簿を机へ置いた。
「鍋に入る前の小麦まで消えているのに、まだ同じ回し方で冬を越すつもりですか」
男は黙り込んだ。
その場でレオンハルトが拘束を命じ、帳場頭と庫番二名は兵に連れ出された。扉が閉まると、庫内は急に広くなったように見えた。残ったのは袋の匂いと、紙をめくる音だけだ。
昼過ぎまでかけて、私たちは四つの兵糧庫の札番号を照合した。振替札の重複は二十七件。乾燥戻しの偽装は十四件。道員向け追加配給と時刻が重なる行は、その大半が第三兵糧庫を起点にしていた。
ミレイユの頬は冷えで赤かったが、指は止まらない。
「奥様、これもです。第五から第二へ振ったことになってるのに、同じ刻限で第二から第一へまた振っています」
「雪道でそんな回し方をしたら、荷車が先に壊れます」
ガレスが吐き捨てる。
「紙しか動いていません」
私は答えた。
「兵站ではなく、欠損の言い訳だけを運んでいたんです」
夕刻、北西砦から最初の空籠が戻った。門前で数える。十二籠。朝に出した数と、ぴたりと合う。籠の縁には新しく結んだ青紐がまだ残っていた。
届けに来た若い兵が、耳まで赤くして言う。
「今日は鍋の底が見えませんでした」
それだけで十分だった。
私は最後の空籠を指先で撫で、それから油布の戻入簿へ視線を落とす。
北方第七補給隊。
死んだはずの名前は、婚姻契約書だけで終わっていなかった。屋敷の帳場を抜け、雪道を渡り、兵糧庫の角印にまで潜っている。
兵糧庫の鼠は捕まえた。
けれど巣穴は、まだ兵糧庫の外へ続いていた。




