第23話
「お兄ちゃん、今日は一緒にゲームできる?」
日曜日、部屋の入り口から顔を覗かせて望果が言った。
またか、と思わず守流は溜め息をつく。
「無理。宿題多いんだ」
「…………分かった」
望果は大人しく扉を閉めたが、その顔は不満が滲んでいた。
喜八の噂の件で声を荒げてしまった日から、望果は少しだけ、守流に対して生意気なことを言わなくなった。
考えてみれば、守流は今まで、望果を怒鳴ったことなんて一度もなかった。
一緒にいてケンカになっても、どちらかと言えば望果の方が大声で怒っていて、守流は黙ってその場を離れることが多かったからだ。
望果にすれば、守流があんな風に怒ったのは衝撃だったのかもしれない。
「守流、ココア作ったんだけど、飲む?」
机に向かってはいるものの、全く宿題がはかどらない守流の所へ、母さんがマグカップを持ってやって来た。
「うん、飲む。……望果は?」
「お友達の所へ遊びに行ったわよ」
「はじめからそうすればいいのに」
先週はずっと酷い雨で、今朝はようやく晴れ間が見えたところだ。
もし今日も雨で遊びに行けなかったら、望果はあっさり引き下がらなかったかもしれない。
そんなことを考えていれば、母さんがカップを差し出しながら苦笑いする。
「望果は今でも守流が好きなのよ」
「……なにそれ」
「守流は中学生になって色々感覚が変わってきたでしょうけど、望果にとってはまだ、お兄ちゃんはいつも一緒にいて遊んでくれる存在のままなの。守流も思うところがあるのかもしれないけど、邪険にはしないであげて欲しいわ」
小学生の頃から、習い事も部活もやりたがらなかった守流は、家にいて望果を相手してやることが多かった。
思春期といわれる時期に来て、守流が内外に様々な変化を感じ、家族に対する感情の表し方一つにしても変化が出てきたわけだが、それは望果には理解出来ない。
望果にしてみれば、“急にお兄ちゃんがよそよそしくなった”と感じてしまうのかもしれない。
「………………気を付ける」
「あら、素直」
母さんが笑うので、守流は顔をしかめた。
ふと机の上を見た母さんが、白い原稿用紙に気付いて軽く首を傾げた。
「作文、進まないの?」
「うん。……このテーマ、苦手なんだ」
立志式についてはプリントも配布されているから、文集制作のことは母さんも知っている。
守流が将来の夢を見つけられていなくて、上手く書けないことも。
守流はココアを一口飲んで、母さんをチラリと見た。
「ねえ、母さん。僕がもし、ずっと夢を見つけられなかったらどうする?」
それは、守流自身が漠然と不安に思っていることだった。
周りの友達は、将来の夢を当たり前に見つけていく。
完全にこれという職業でなくても、こんな感じの仕事をしたい、こんなことがしてみたいという、将来に対する方向性を掴んでいく。
しかし守流には、そういうものの欠片すら見つかっていない。
人に迷惑を掛けたくない、くらいの考えはあっても、何をしたい、何をしたくないという強い欲求はない。
もしかしたら、自分はいつまでもはっきりしたものを見つけられないまま、大人になっても何も決められないのではないかと思ってしまう……。
「見つけられるわよ。だって、守流はやりたいことをちゃんともう選択出来ているもの」
「え!? 僕がいつ? いつも悩んで決められないのに……」
当たり前のように明るく母さんが言って、守流は本気で驚いた。
部活動ひとつ決められず、今もこうして作文すら書けないというのに。
「夏休みには、用水路を掃除するって言い出したし、体育大会は実行委員になったわよ。それって、誰かに押し付けられたんじゃなくて、守流が自分で決めたことでしょう?」
「僕が……自分で…」
少しも心配していないという顔で、母さんが笑う。
「大丈夫。ゆっくりでも、守流は大事なことはちゃんと自分で決められるわ。これからもね」
不意に鼻の奥がツンとして、守流は急いでココアを口に含んだ。
湯気が顔に当たって、目に染みる。
ココアから顔を上げられない守流に、母さんは言う。
「ねえ、いっそ『夢はまだありません』って書けばいいんじゃない?」
「ええ? だめでしょ」
「どうして? 嘘の夢は書きたくないんでしょう? じゃあ、今はないけどその内見つけるっていう内容にしてもいいじゃない」
なるほど、と守流は思う。
それなら嘘を書くわけではないから、自分の気持ちで書こうと思えば書けるかもしれない。
でも、明確な夢を書かなくても、先生は良しとするだろうか。
小学生の頃に書き直しを言い渡されたことを思い出し、なんとなく苦い気持ちになったが、母さんが突然、何かを思い出したように楽し気に笑った。
「実は母さんも小学生の時に上手く書けなくて、『家内安全』って書いたわ」
「家内…安全?」
「そう。お祖父ちゃんに言われてね。守流、知ってる? お祖父ちゃんの夢って“家内安全”だったのよ」
勘じいちゃんの笑顔が、唐突に守流の中で甦った。
『あるぞ。勘じいちゃんの将来の夢はなぁ、家内安全だ』
守流はマグカップを置いて立ち上がる。
「母さん、僕ちょっと出掛けてくる」
「え? どこに?」
「用水路!」
部屋を出る守流の後ろから、「増水してるから気を付けてよ!」という声が聞こえて、守流は返事をしながら階段を駆け下り、玄関を飛び出した。




