第24話
『……勘じいちゃんは今でも夢があるの?』
『あるぞ。勘じいちゃんの将来の夢はなぁ、“家内安全”だ』
『家内安全って、なに?』
『家族皆が元気で、毎日何事もなく笑って過ごせるってことだな』
勘じいちゃんがうんうんと大きく頷くので、小学二年の守流は口を尖らせた。
『それ、夢じゃないよ勘じいちゃん。だって、当たり前のことでしょ』
守流の前にしゃがんでいた勘じいちゃんは、守流にしっかりと目線を合わせた。
その顔は笑顔だったが、守流を見つめる目はどこか真剣に見えた。
『当たり前のことじゃないんだ、守流。こうして何かの度に勘じいちゃんの家に集まって、皆が笑って元気な姿を見せてくれる。そうして、楽しい時間を一緒に過ごす。それはなぁ、本当にすごいことなんだ。欲しいと願って、簡単に得られるものじゃないんだよ』
『……よく分からない』
『今はそうだなぁ……』
不貞腐れたような顔をした守流を、一度大きな手で撫でて、勘じいちゃんはそれでも独り言のように続けた。
『……皆にとって、この山の家がずっとそういう居場所であって欲しい。それで、皆が勘じいちゃんのことを思い出して、これからも笑ってくれたら……』
勘じいちゃんは、キラキラと輝く水面を見た。
『それが勘じいちゃんの夢だよ、守流』
守流は用水路に向かって走った。
雨はすっかり止んで、青空が見えているが、風は強い。
思い出した。
全部思い出した。
あの時、勘じいちゃんはきっと、お盆を過ぎれば、もう二度と会えないかもしれないと分かっていたのだ。
勘じいちゃんは、自分のことを覚えていて欲しい、思い出して笑って欲しいと願っていたのに、守流は何年も、すっかり忘れてしまっていた……。
向かい風の中、守流は水溜りの水を激しく飛ばして、靴やズボンのすそが濡れるのも気にせず走った。
喜八に伝えなければ、と思った。
喜八は勘じいちゃんの夢を知っていた。
あの時、川の中から聞いていたのだから。
だからこそ、守流に勘じいちゃんのことを教えなかったのだ。
守流が自分で思い出を取り戻し、勘じいちゃんが大好きだと、笑って言えるようになって欲しかったから。
それが勘じいちゃんの夢だったから。
喜八。
喜八、思い出したんだ。
勘じいちゃんのことを。
勘じいちゃんが僕の生きる力を信じてくれたことを。
勘じいちゃんが、僕にどれだけの愛情をくれたかを。
ちゃんと思い出した。
喜八に、勘じいちゃんのことが今でも大好きだと伝えなければ。
そして、喜八に……。
用水路の上の橋まで来て、息を切らして守流は立ち止まった。
用水路は、連日の大雨で水位が更に上がっていた。
大人の背丈ほどもある深さの三分の二を越し、ゴウゴウと勢いよく流れる茶色の濁流は、強風も手伝ってか、その水面を狂ったようにうねらせている。
そんな用水路の側、下の生活道路にいる人物を見て、守流は目を見開く。
「望果!」
大声で名前を呼ばれて、しゃがんで用水路に身を乗り出すようにしていた望果は、驚いて顔を上げた。
上の道路から、守流がガードレールの切れ目をすり抜けて降りてくるのを見て、慌てて立ち上がる。
「望果、危ないだろ! 何やってるんだ!」
「お兄ちゃん、違うよ! 別にお化けには関係ないの」
望果は声を荒げた守流に、また用水路の噂のことで怒られるのだと思った。
早足に側まで来た守流の顔と、用水路を見比べるようにして、急いで濁流を指差す。
荒れる川面には、ピンクの帽子が、沈みかけの小舟のように激しく揺れながら浮いていた。
用水路の壁の段差に、上手く引っ掛かっているのだ。
「風で帽子が落ちちゃって……」
ビュウッ
望果の言葉が終わる前に、突風が吹いた。
強く耳に風音が届いたと同時に、道路端に集まっていた枯れ葉が飛ぶ。
その一片が望果の目元をかすった時、反射的に強く目を閉じた望果の身体が傾いだ。
「望果っ!!」
何をどう動いたのか、分からなかった。
ただ、望果が用水路に落ちると思って、守流は手を伸ばした。
身体を強く押して、望果が道路の方へつんのめったのは見えた。
押した反動で、自分の身体のバランスが崩れて、望果がアスファルトの上に転ぶ所から、視界がぐるりと回り、青空が見えた―――。
ザンッという音が聞こえると同時に、用水路に落ちたと分かった。
瞬間に、守流の身体は濁流に飲まれて押し流される。
「お兄ちゃんっ!」と叫んだ望果の声が、微かに聞こえたような気がしたが、一瞬で全てが消えた。
海やプールで泳ぐのとは、まるで違う。
手足を必死で動かしても、それは全く思うようには動かない。
息を吸い込んだはずの鼻と喉に、泥臭い水が強引に侵入して喘いだ。
強い力でもみくちゃにされるように、身体の自由が失われる。
黒と茶色と灰色でぐちゃぐちゃに塗りつぶされた視界と、籠もっているのにゴウゴウと激しくうるさい音が頭を占め、鼻の奥から目の裏までがチカチカと馬鹿みたいに痛んだ。
苦しい。
気持ち悪い。
自由の効かない身体のあちこちが、全てが痛い。
怖い。
嫌だ。
怖い、怖い。
―――誰か助けて。
「マモル、大丈夫だよ」
喜八の声が、側で聞こえた。




