乳離れ
第七話 乳離れ
クラムの朝は、今日も穏やかに始まった。
東の空が明るくなり、町の家々から細い煙が上がっている。
どこかでパンを焼く匂いが漂い、土の道を荷車がゆっくりと通っていった。
庭では、ユートがいつものように木剣を振っている。
ヒュッ。
ヒュッ。
毎朝変わらない音だった。
俺は食卓のそばに立ち、その音を聞きながら、サライが朝食を並べる様子を見ていた。
焼きたてのパン。
野菜を柔らかく煮込んだスープ。
薄く切った肉。
それに、黄色い果物。
相変わらず、なかなか魅力的な食卓だ。
以前の俺なら、眺めていることしかできなかった。
俺の主食は、長い間サライの乳だったからだ。
だが最近は、柔らかく煮た野菜や、スープへ浸したパンを少しずつ食べさせてもらっている。
歯はまだ十分に生え揃っていない。
硬いものは食べられない。
それでも、ようやく家族と同じ食卓の味を知り始めていた。
「カイト、今日はこれを食べてみましょうね」
サライが小さな木の器を俺の前へ置いた。
中には、スープをたっぷり吸わせたパンが入っている。
匙ですくうと、簡単に形が崩れるほど柔らかい。
「ぱ……ん」
声に出してみる。
まだ少し言いにくいが、以前よりはずっとましだ。
「そう。パンよ」
サライが嬉しそうに笑った。
最近、俺が何かを口にするたび、サライは必ず同じ言葉をゆっくり繰り返す。
俺が言葉を覚え始めたと思っているのだろう。
実際には、意味ならとっくに分かっている。
だが発音の練習になるので、ありがたい。
「カイト、あーん」
隣に座ったアニーが、匙を持って俺の口元へ差し出した。
サライではなく、なぜ姉さんが食べさせようとしているのか。
しかも匙には、器から溢れそうなほどパンが乗っている。
「アニー、そんなに入れたら食べられないでしょう」
「大丈夫だよ」
「大丈夫ではありません」
サライが匙を取り上げ、量を半分ほどに減らした。
やはりアニーへ任せるのは、少し危険らしい。
「あーん」
もう一度差し出される。
仕方なく口を開けた。
「あー」
柔らかなパンが舌へ乗る。
スープの塩気と、野菜の甘みが口の中へ広がった。
悪くない。
いや、かなり美味い。
これまで匂いだけで我慢していた時間が長かったせいか、余計にそう感じる。
「おいしい?」
「うま」
俺が答えると、アニーが目を輝かせた。
「お母さん! カイトが美味しいって!」
「そうね」
サライも笑っている。
俺はもう一口欲しくて、器へ手を伸ばした。
「ぱん」
「はいはい」
今度はサライが匙を取った。
少しずつ。
ゆっくりと。
口へ運んでくれる。
何度か食べるうちに、腹が満ちてきた。
以前なら、このあとサライに抱かれ、そのまま乳を飲んでいた。
だが今日は、もう十分だった。
◇
朝食が終わると、サライが俺を抱き上げた。
「まだ少し飲む?」
いつものように胸へ寄せられる。
だが、不思議と欲しいとは思わなかった。
匂いも、温かさも、よく知っている。
生まれてからずっと、俺を育ててくれたものだ。
決して嫌になったわけではない。
ただ、腹はもう満ちている。
俺は顔を横へ向けた。
「あら?」
サライが少し驚いた声を出した。
もう一度、確かめるように抱き直す。
「いらないの?」
「うん」
俺は小さく頷いた。
最近は、頷くこともだいぶ上手くなった。
サライはしばらく俺を見つめた。
「お腹いっぱいなのね」
「ぱん」
「パンをたくさん食べたものね」
笑ってはいる。
だが、どこか少しだけ寂しそうに見えた。
俺はサライの顔を見上げた。
どうしてそんな顔をするのか、すぐには分からなかった。
食べられるものが増えた。
母乳を飲まなくても腹が満たせる。
それは成長したということだ。
喜ぶことだと思っていた。
だが、サライにとっては、それだけではないらしい。
「もう、おっぱいよりパンの方が好きなの?」
冗談めかした言い方だった。
だが、その声は少しだけ弱かった。
俺は困った。
どちらが好きかと聞かれても、比べるものではない。
パンは食事だ。
母乳も食事だった。
だが、サライに抱かれて飲んでいた時間には、それだけではないものがあった。
安心する温かさ。
眠りへ落ちるまで聞いていた心臓の音。
前の母を思い出し、苦しくなった夜も、サライの腕の中にいれば落ち着いた。
あれは、食事だけではなかったのだ。
俺はサライの首へ腕を回した。
「かあしゃ」
サライの目が、少し大きくなる。
俺はもう一度、抱きついた。
「かあしゃ」
サライは何も言わず、俺の背中へ手を回した。
胸へ抱き寄せられる。
以前とは少し違う抱き方だった。
乳を飲ませるためではない。
ただ、俺を抱きしめている。
「そうね」
小さな声だった。
「母さんは、母さんだものね」
その通りだ。
乳を飲まなくなったからといって、何かが変わるわけではない。
◇
昼。
俺はアニーと庭を歩いていた。
歩くことには、もうかなり慣れている。
最初の頃のように、一歩ごとに重心を考える必要はなくなった。
それでも、長い距離を歩けば疲れる。
赤ん坊の身体は、まだそれほど体力がない。
「カイト、こっち!」
アニーが少し先から手招きする。
庭の隅に、小さな白い花が咲いていた。
俺はそこまで歩き、しゃがみ込む。
花びらは五枚。
中心は黄色い。
以前の世界にも似た花はあった。
だが、葉の形が少し違う。
「きれいでしょう」
「はな」
「そう。お花!」
アニーが嬉しそうに頷く。
俺は花へ手を伸ばした。
だが、摘むのはやめた。
ここで咲いている方がいい。
その時、アニーが俺の手を取った。
「次はあっち!」
勢いよく引かれる。
俺は踏ん張らず、引かれた方向へ一歩出た。
身体が自然に動く。
足。
腰。
肩。
力をぶつけず、流れへ合わせる。
その感覚に、遠い記憶が蘇った。
昔、道場で何度も教えられた。
力で止めるな。
相手とぶつかるな。
力の流れを感じろ。
合気道。
零戦へ乗るよりずっと前、俺が少年だった頃に習っていたものだ。
ユートの剣の動きを見て、どこか懐かしいと感じていた理由が、ようやく分かった。
剣も合気道も、根は同じなのだろう。
腕だけで動かない。
足から腰へ。
腰から肩へ。
全身を一つにして力を通す。
相手の力と正面からぶつからず、その流れを変える。
ユートは剣で、それを行っている。
俺はアニーに手を引かれながら、自然に身体を回した。
だが、次の瞬間。
足がもつれた。
「うっ」
尻から草の上へ落ちる。
頭では分かっている。
身体の動かし方も覚えている。
だが、この身体にはまだ筋力も体力も足りない。
思い出したからといって、すぐに同じ動きができるわけではなかった。
「カイト、大丈夫?」
アニーが慌てて戻ってくる。
「あう」
問題ない。
草の上だったので痛くもない。
アニーは俺の手を取り、立たせてくれた。
「ゆっくり行こうね」
今度は、先ほどよりずっと弱く手を引く。
姉さんなりに気を遣っているらしい。
俺はその手を握り返した。
焦る必要はない。
身体は少しずつ育っている。
今は、歩けるだけで十分だ。
◇
夕方。
家族四人で食卓を囲んだ。
ユートは森で採ってきたという茸を焼いている。
サライは野菜のスープを器へ注ぎ、アニーはパンをちぎっていた。
俺の前には、柔らかく煮込んだ野菜と、スープへ浸したパンが置かれている。
「今日はたくさん食べられたわね」
サライが言った。
「うま」
「美味しい?」
「うん」
返事をすると、サライが笑った。
朝に見せた寂しそうな顔ではない。
いつもの優しい笑顔だった。
アニーが自分のパンを少しちぎり、俺の器へ入れる。
「これも食べていいよ」
「ありがと」
まだ少し舌が回らない。
だが、意味は伝わったらしい。
アニーが固まった。
「今、ありがとうって言った?」
「ありがと」
「お母さん! カイトがありがとうって!」
「聞こえたわよ」
アニーは自分が褒められたように喜んでいる。
ユートが俺を見る。
「よく話すようになったな」
「とう」
俺が呼ぶと、ユートの手がわずかに止まった。
まだ「父さん」とは言えない。
だが、誰を呼んでいるかは分かる。
「ああ」
ユートはそれだけ答えた。
口元が少し緩んでいる。
「アニーは?」
姉さんがすぐに割り込んでくる。
「あーに」
「もう一回!」
「あーに」
「もう一回!」
また始まった。
俺はパンを口へ入れながら、三人を見る。
今日は、特別なことは何も起きなかった。
町を出てもいない。
剣を持ってもいない。
魔法らしいものも、まだ見ていない。
ただ、朝食を食べ。
庭を歩き。
姉さんと遊び。
家族で夕食を囲んだ。
それだけだ。
だが。
前の人生では、こんな一日を当たり前だと思ったことがあっただろうか。
戦場では、昨日までいた人間が、翌朝にはいなくなる。
帰る場所があることも。
家族が待っていることも。
一緒に食卓を囲めることも。
決して当たり前ではなかった。
サライが俺の口元についたスープを布で拭った。
「カイト、もうお腹いっぱい?」
「うん」
「今日は、もう飲まなくても平気そうね」
声は穏やかだった。
朝よりも、少しだけ吹っ切れたように聞こえる。
俺はサライへ手を伸ばした。
「かあしゃ」
「はい」
すぐに抱き上げられた。
乳を飲むためではない。
ただ抱いてほしかった。
サライの首へ腕を回す。
温かさは、何も変わらない。
「大きくなったのね」
サライが静かに言った。
嬉しそうで。
それでも、ほんの少しだけ寂しそうだった。
俺はその頬へ手を触れた。
「かあしゃ」
もう一度呼ぶ。
サライは目を細め、俺を強く抱きしめた。
乳を飲まなくなっても。
俺が歩けるようになっても。
言葉を話せるようになっても。
この人が俺の母であることは、何も変わらない。
そして俺は、今日もこの家で眠る。
穏やかな一日だった。
今の俺には、それが何より嬉しかった。




