ミナ
第八話 ミナ
クラムの朝は、今日も穏やかに始まった。
東の空から朝日が昇り、町の屋根を柔らかく照らしていく。
パンを焼く匂い。
井戸へ向かう人たちの声。
荷車が土の道をゆっくり進む音。
庭では、ユートがいつものように木剣を振っていた。
ヒュッ。
ヒュッ。
俺は縁側に座り、その動きを見ていた。
歩けるようになってから、見える景色はずいぶん変わった。
床の近くを這っていた頃よりも、物の形がよく分かる。
家の中だけではない。
庭。
道。
その向こうを歩く人たち。
俺の世界は、少しずつ広がり続けている。
その日。
さらにもう一人、俺の世界へ入ってきた。
◇
「ユート!」
家の外から、大きな声が響いた。
庭で木剣を振っていたユートが、動きを止める。
「いるんだろう!」
聞き覚えのない声だった。
だが、サライはすぐに笑った。
「バルガスさんだわ」
ユートは木剣を下ろした。
「朝から声が大きい」
「聞こえなければ困るだろう!」
門の向こうから現れたのは、大柄な男だった。
肩幅が広い。
腕も太い。
歩くたびに、地面が少し揺れているように見える。
歳はユートと同じくらいだろう。
腰には剣。
背には大きな荷物を背負っている。
そして、その隣に小さな女の子がいた。
俺よりはずっと大きい。
だが、アニーよりは少し小さい。
赤茶色の髪を肩のあたりで切り揃え、丸い目でこちらを見ている。
「久しぶりだな、ユート!」
「昨日も会った」
「細かいことは気にするな!」
男は豪快に笑った。
なるほど。
この男がバルガスか。
ユートとは正反対だ。
ユートは必要なことしか言わない。
バルガスは、必要のないことまで大声で言うらしい。
「お父さん、うるさい」
隣の女の子が言った。
バルガスの笑い声が止まった。
「ミナ。父親に向かってそれはないだろう」
「だって、うるさいもん」
どうやら、この子がミナらしい。
三歳。
アニーより一つ下だと聞いたことがある。
バルガスは困ったように頭を掻いた。
その時、家の中からアニーが飛び出してきた。
「ミナー!」
「アニー!」
二人はすぐに駆け寄った。
顔見知りらしい。
「久しぶり!」
「昨日も会ったよ」
「細かいことは気にしないの!」
アニーが、さっきのバルガスとまったく同じことを言った。
血は繋がっていないはずだが、妙なところが似ている。
◇
ミナはアニーと少し話したあと、すぐに俺へ気づいた。
「この子がカイト?」
近づいてくる。
俺は縁側に座ったまま、ミナを見た。
赤茶色の髪。
明るい茶色の瞳。
年齢の割に、ずいぶん物怖じしない。
ミナは俺の前へしゃがみ込んだ。
「小さい」
当然だ。
俺はまだ一歳にもなっていない。
ミナはしばらく俺の顔を見つめていた。
そして、指を伸ばした。
頬をつつく。
またか。
この世界の人間は、赤ん坊の頬を見ると触らずにはいられないらしい。
「やわらかい」
「カイトのほっぺ、気持ちいいでしょ」
アニーが得意そうに言った。
なぜ姉さんが自慢する。
ミナはもう一度、俺の頬をつついた。
「カイト、わたしミナ」
「み……な」
声に出してみる。
まだ舌がうまく回らない。
だが、名前くらいなら少しずつ言えるようになってきた。
ミナの目が大きくなった。
「いま、ミナって言った?」
「言ったよ!」
アニーが本人より先に答えた。
「カイト、ミナって言った!」
「もう一回」
ミナが身を乗り出す。
「みな」
今度は、少しはっきり出た。
ミナの顔がぱっと明るくなる。
「わたしの名前、言えた!」
それほど喜ぶことだろうか。
だが、悪い気はしない。
◇
「カイト、こっち!」
ミナは俺の手を取った。
いきなりだ。
「庭で遊ぼう」
俺の返事を待たずに歩き始める。
ずいぶん強引な子だな。
俺は転ばないように足を出した。
ミナは三歳。
当然、俺より歩くのが速い。
だが、こちらに合わせて少しだけ歩幅を落としている。
どうやら、何も考えていないわけではないらしい。
庭へ降りる。
アニーもすぐに後を追ってきた。
「何して遊ぶ?」
「お花」
「それだけ?」
「じゃあ、追いかけっこ」
それは困る。
今の俺に、長く走り回る体力はない。
ミナは庭の隅へ走っていき、小さな花を一輪摘んだ。
俺の前へ持ってくる。
「はい」
「はな」
「そう。お花」
ミナは嬉しそうに頷いた。
そのまま花を俺へ渡そうとする。
だが、俺が受け取る前に、花びらがふわりと浮いた。
風はない。
それでも花は、ミナの手の上で小さく回っている。
淡い光が、指先を包んでいた。
俺は目を離せなかった。
何だ。
今のは。
花びらはゆっくりと浮かび、俺の目の前まで運ばれてくる。
ミナは得意そうに笑った。
「できた」
後ろでバルガスが大きな声を出した。
「おお! また上手くなったな!」
ミナは胸を張った。
「もうできるもん」
アニーは慣れているのか、それほど驚いていない。
だが俺にとっては、初めて見る現象だった。
風でもない。
糸もない。
花びらそのものが、目に見えない何かに運ばれている。
これが。
この世界の魔法なのか。
◇
「興味があるか」
バルガスが俺の前へしゃがみ込んだ。
近くで見ると、さらに大きい。
顔も腕も、ユートより一回り太い。
だが目は笑っている。
「これは魔力だ」
「まりょく」
俺は聞き返した。
バルガスの眉が上がる。
「もうそんな言葉まで言えるのか」
「最近、急に話すようになった」
ユートが答えた。
「お前の子だから、愛想はないと思っていたがな」
「余計なことを言うな」
バルガスは笑った。
「魔力はな、生きている者なら誰でも少しは持っている」
バルガスは自分の手を開いた。
手のひらに、淡い光が灯る。
ミナのものより明るい。
「人によって量も違う。扱い方も違う。外へ出せるようになるのは、だいたい三つか四つくらいからだ」
なるほど。
だから三歳のミナが、あの程度の力を見せられるのか。
「ミナは覚えるのが早いぞ」
「えへへ」
ミナが得意そうに笑う。
バルガスは次に、俺を見た。
「カイトにも、そのうち分かる」
そう言いながら、俺の肩へ手を置く。
何かを確かめるように目を細めた。
「……ん?」
バルガスの表情が変わった。
ユートが気づく。
「どうした」
「いや」
バルガスはもう一度、俺を見る。
さっきまでの笑顔が少し消えている。
「妙だな」
「何がだ」
「魔力とはちょっと違うな」
バルガスは首を傾げた。
「なんだこの感じは?」
その言い方が気になった。
「何か力のような物は感じるんだがな、魔力とは違う」
ユートの目が、わずかに細くなる。
「そんなことがあるのか」
「いや、わからん」
バルガスは俺の腕へ触れた。
次に胸元。
だが、何を確かめているのか俺には分からない。
「魔力の感じとはまるで違うんだよなあ」
「じゃあなんなんだ?」
「ああ」
バルガスの声が少し低くなった。
「よくわからん!」
身体の中。
その言葉に、俺は少し考えた。
「どういうことだ」
ユートが尋ねる。
バルガスはしばらく考えたあと、大きく息を吐いた。
「分からん」
「分からないのか」
「こんなのは見たことがない」
バルガスは苦笑した。
「だが、悪い感じはしない。力だけは感じる」
ユートは俺を見る。
いつもの静かな目だ。
驚いてはいる。
だが、不安そうではない。
「なら、今はそれでいい」
「相変わらず大雑把だな、お前は」
「お前に言われたくない」
バルガスが声を上げて笑った。
いつもの調子へ戻ったらしい。
◇
その間も、ミナは気にした様子もなく花びらを浮かせていた。
「カイトもやってみる?」
無茶を言う。
俺はミナの手元を見る。
淡い光。
浮かぶ花びら。
バルガスの話が本当なら、俺には魔力とは違う何かはあるらしい。でも魔力では無いらしい。
それは、外へ出てこない。
内側だけを巡っている。
それが何なのか俺にもわからない。
自分の中にあるものが何なのかすら分かっていない。
まず観察だ。
「できない?」
ミナが首を傾げる。
「まだ」
そう答えると、ミナは少し考えた。
「じゃあ、わたしが教える」
三歳の子どもに教わることになるとは思わなかった。
「ミナ先生だね!」
アニーが笑う。
ミナは胸を張った。
「うん!」
ずいぶん頼もしい先生だ。
俺も思わず笑った。
◇
帰る時間になると、ミナは少し不満そうな顔をした。
「もう帰るの?」
「また来ればいいだろう」
バルガスが言う。
「明日?」
「明日は仕事だ」
「じゃあ、あさって」
「分かった分かった」
バルガスは笑いながら、ミナの頭を撫でた。
ミナは俺の前へ来る。
「カイト」
「みな」
「また遊ぼうね」
「うん」
俺が頷くと、ミナは嬉しそうに笑った。
そして、俺の頬をもう一度つついた。
「やっぱり、やわらかい」
またか。
だが、最初ほど嫌ではなかった。
ミナはバルガスと手を繋ぎ、道を歩いていく。
途中で何度も振り返り、こちらへ手を振った。
アニーも大きく手を振り返す。
俺も真似をして手を上げた。
「みな」
名前を呼ぶと、ミナの顔がまた明るくなる。
大きく手を振り、今度こそ道の向こうへ消えていった。
家族以外で、初めて名前を呼んだ相手。
それがミナだった。
友達。
おそらく、そういうものなのだろう。
そしてもう一つ。
この世界には、魔力がある。
目に見えない力。
人の身体に宿り、光や風へ姿を変えるもの。
俺の中には魔力は無いらしい。
ただし。
誰にも分からない形で、何かの力が身体の内側を巡っている。
俺は自分の手を見た。
何も見えない。
光も出ない。
だが、確かに何かがある。
クラムへ来てから、分からないことは増える一方だ。
それでも。
不思議と嫌ではなかった。
この世界には、まだ俺の知らないものがいくらでもある。
そして今日。
その一つと。
新しい友達に出会った。




