片言
第六話 片言
クラムの朝は、今日も穏やかに始まる。
東の空から朝日が昇り、町を柔らかく照らしていく。
パンを焼く香ばしい匂いが風に乗り、井戸へ向かう人々が朝の挨拶を交わす。
荷車が土の道をゆっくりと進み、眠っていた町が少しずつ動き始める。
ユートは、いつものように庭で木剣を振っていた。
ヒュッ。
少し間を置いて。
ヒュッ。
毎朝、変わらない音だった。
俺は縁側の柱につかまり、その動きを見ていた。
あの日、初めて立ってから二か月ほどが過ぎた。
今では、もう柱につかまる必要はない。
歩くことにも、すっかり慣れた。
歩幅は小さい。
足も短い。
大人と比べれば、進む速さなど大したことはない。
それでも、ハイハイよりはずっと速かった。
何より、両手が自由に使える。
歩きながら物を持てる。
立ったまま周囲を見渡せる。
床の近くから見ていた頃とは、世界の広さがまるで違った。
もっと早く歩けるようになりたい。
だが、焦る必要はない。
身体は順調に成長している。
歩けるようになっただけでも、探検できる範囲はかなり広がった。
もっとも。
それで一番困っているのは、サライらしい。
◇
「カイト?」
家の中から、サライの声が聞こえた。
俺は縁側を歩いていた。
以前なら、サライが少し目を離した隙にハイハイでいなくなっていた。
今は違う。
歩ける。
つまり、いなくなるまでの時間がさらに短くなった。
「カイトー?」
声が近づいてくる。
俺は振り返った。
廊下の向こうから、サライがこちらへ来る。
俺を見つけると、ほっとしたように息を吐いた。
「もう。またこんなところまで来て」
「あーう」
ちゃんと家の中にいる。
それほど心配することはない。
そう言ったつもりだった。
最近、声の出し方が少し変わってきた。
以前は、何を言おうとしても「あう」か「うー」にしかならなかった。
だが今は、口の形を変えれば、それに合わせて音も変わる。
「あー」
「うあ」
「んー」
舌も、以前より動くようになった。
喉から出す音も選べる。
まだ言葉にはならない。
だが、もう少しだ。
「最近、よくおしゃべりするようになったわね」
サライがしゃがみ込み、俺の頭を撫でた。
「あーう」
「何を言っているのかしら」
全部だ。
俺はずっと前から、この家族の話していることを理解している。
問題は、こちらの言葉が伝わらないことだった。
操縦桿なら、わずかに動かすだけで機体へ意思を伝えられた。
だが、口と舌はそう簡単には動かない。
言いたい言葉は頭の中にある。
音の並びも分かっている。
それなのに、出てくるのは別の音だ。
まったく、もどかしい。
「お腹が空いたの?」
違う。
「眠い?」
それも違う。
「お父さんを見ていたの?」
「あーう!」
それだ。
俺は庭を指差した。
サライが目を丸くする。
「やっぱり、お父さんを見ていたのね」
どうやら、以前よりは伝わりやすくなっているらしい。
ならば、言葉になるのも時間の問題だ。
◇
「カイトー!」
アニーが走ってきた。
今日も朝から元気だ。
俺の前で立ち止まると、両手を広げた。
「お姉ちゃんだよ!」
知っている。
「アニー!」
サライが台所から声を掛けた。
「走ると危ないでしょう」
「大丈夫だよ」
その言葉に根拠がないことも、もう分かっている。
アニーは俺の前へしゃがみ込んだ。
「カイト。アニーって言ってみて」
急に難しいことを言う。
「あ……」
口を開く。
最初の音は出た。
だが、その先が続かない。
「あー……」
「今、『ア』って言った!」
アニーが振り返る。
「お母さん! カイトがアニーって言った!」
「言ってないでしょう」
「言ったよ。最初だけ」
最初だけでいいなら、何でも言ったことになりそうだ。
アニーは期待に満ちた目で、もう一度俺を見る。
「アニー」
「あー……に」
今度は、少し近づいた。
自分でも驚いた。
舌先を上へ動かした時、狙った音に似たものが出た。
アニーは一瞬、固まった。
それから飛び上がった。
「言った!」
「アニー、危ない!」
「カイトがアニーって言った!」
「あーに」
もう一度やってみる。
今度は、さっきより自然に出た。
完全ではない。
だが、アニーには十分だった。
「カイトー!」
抱きつかれた。
勢いが強い。
俺は後ろへ倒れそうになったが、アニーがそのまま支えた。
「私のこと分かるんだね!」
分かっている。
生まれた時から、毎日のように顔を見ている。
ただ、言えなかっただけだ。
「お母さん、聞いた?」
「聞いたわよ」
サライも驚いている。
だが、アニーほど大騒ぎはしなかった。
俺の声が少しずつ変わってきたことに、前から気づいていたのだろう。
「もう一回言って」
「あーに」
「もう一回!」
「あーに」
「もう一回!」
姉さん。
何度言わせるつもりだ。
◇
昼を過ぎる頃には、俺は家の中を歩き回っていた。
居間。
廊下。
物置。
縁側。
以前は時間のかかった場所にも、すぐに行ける。
歩けるというのは便利だ。
ただし、まだ完全ではない。
急いで方向を変えると、身体が遅れてついてくる。
頭が重いため、勢いがつくと止まりにくい。
一度、廊下の角を曲がろうとして壁へ肩をぶつけた。
その音を聞いたサライが、すぐに飛んできた。
「カイト!」
「あう」
「痛くなかった?」
少し痛い。
だが、この程度なら問題ない。
「だから走ったら危ないでしょう」
走ったつもりはない。
少し早く歩いただけだ。
「この子、歩けるようになった途端に、ますます速くなったわ」
サライが困った顔をする。
そこへアニーが現れた。
「カイト、こっち!」
廊下の向こうから手招きしている。
俺はそちらへ向かった。
「アニー、走らせないで」
「走ってないよ。歩いてるよ」
その通りだ。
サライは二人まとめて心配しているらしい。
アニーのところまで行くと、彼女は俺の手を取った。
「庭に行こう」
「あーに」
「うん、アニーだよ」
自分の名前を呼ばれるのが、よほど嬉しいらしい。
俺の手を握ったまま、庭へ向かって歩き始める。
こちらの歩幅へ合わせて、ゆっくり歩いている。
普段は勢いよく走り回る姉さんだが、こういう時だけは慎重だった。
◇
庭では、ユートが薪を割っていた。
斧を振り上げる。
振り下ろす。
乾いた音とともに、薪が二つに割れる。
木剣を振る時とは違う。
だが、足から腰へ力を伝え、最後に腕へ流すところは同じだった。
俺はアニーの手を離し、ユートへ近づいた。
ユートがこちらを見る。
「歩くのも慣れたな」
「あーう」
もう慣れた。
そう返したつもりだった。
ユートは斧を置き、俺の前へしゃがんだ。
「何か言いたそうだな」
分かるのか。
俺はユートの顔を見た。
父さん。
家族はそう呼んでいる。
俺も、その言葉を口にしてみたかった。
「と……」
声が出た。
ユートの眉が、わずかに動く。
「とう……」
その先が続かない。
舌がうまく回らない。
「とう?」
アニーが横から覗き込む。
「お父さんって言いたいの?」
「あう」
そうだ。
ユートはしばらく俺を見た。
「急がなくていい」
短い言葉だった。
だが、その口元は少し緩んでいる。
「とう……」
もう一度試した。
今度も、そこまでだった。
だがユートは頷いた。
「聞こえた」
まだ呼べていない。
それでもユートには伝わったらしい。
そのことが、少し嬉しかった。
◇
夕方。
西の空が赤く染まり始めていた。
クラムの町から、夕食の支度をする匂いが流れてくる。
焼いた肉。
煮込んだ野菜。
パンの香り。
どれも魅力的だ。
だが俺の食事は、まだ母親の乳が中心だった。
最近は柔らかく煮た物も少し食べさせてもらえる。
それでも、食卓に並ぶ料理を自由に食べられるようになるには、もう少しかかりそうだ。
サライは縁側で、乾かしていた布を取り込んでいた。
俺は居間から歩いていく。
歩くことにも、だいぶ慣れた。
足を前へ出す。
身体を乗せる。
次の足を出す。
一つずつ考えなくても、自然に動くようになってきた。
サライの後ろまで来る。
だが、彼女は気づいていない。
俺は服の裾へ手を伸ばした。
軽く引く。
「ん?」
サライが振り返った。
「あら、カイト。どうしたの?」
俺は顔を上げた。
ずっと呼んでみたかった。
前の母によく似ている。
だが、この人は別の人だ。
この世界で俺を産み、抱き、育ててくれた母親。
言葉は、もう分かっている。
音も覚えている。
あとは口にするだけだ。
「か……」
最初の音は出た。
サライが動きを止める。
「カイト?」
「かあ……」
舌がもつれる。
音が崩れる。
違う。
もう一度だ。
俺はサライを見上げたまま、ゆっくり口を動かした。
「かあ……しゃ」
サライの目が大きくなった。
手にしていた布が、縁側へ落ちる。
「今……」
声が震えていた。
「今、何て言ったの?」
伝わった。
俺は嬉しくなった。
もう一度、口を開く。
「かあしゃ」
今度は、さっきよりはっきり言えた。
サライの目から、涙がこぼれた。
次の瞬間、強く抱きしめられる。
「カイト……」
頬に、サライの涙が触れた。
「もう一度……呼んで」
「かあしゃ」
サライは泣きながら笑った。
「はい。母さんですよ」
その声を聞いて、胸の奥が温かくなった。
家の中から、アニーが飛び出してくる。
「お母さん、どうしたの?」
「カイトが……」
サライは涙を拭いながら、俺を抱き直した。
「母さんって、呼んでくれたの」
「ほんと!?」
アニーが俺の顔を覗き込む。
「カイト、もう一回!」
「かあしゃ」
「わあ!」
アニーが飛び跳ねる。
庭から戻ってきたユートも、縁側の前で足を止めた。
「話したのか」
サライは何度も頷いた。
「ええ。母さんって」
ユートが俺を見る。
俺もユートを見る。
「とう……」
まだ、その先はうまく出なかった。
ユートは少しだけ笑う。
「それで十分だ」
アニーがすぐに割り込んできた。
「アニーは?」
「あーに」
「やった!」
家の中へ、アニーの笑い声が響いた。
サライは俺を抱いたまま笑い、ユートも静かに見ている。
俺はようやく、この家族へ自分の声を届けることができた。
まだ片言だ。
言いたいことの半分も口にできない。
それでも。
これで、ただ聞いているだけではなくなった。
俺はこの家族と話していける。
サライの胸へ顔を寄せる。
温かい。
「かあしゃ」
もう一度呼ぶと、抱く腕へ少しだけ力がこもった。




