探検
第五話 探検
生まれて六か月。
俺は、新しい移動手段を手に入れていた。
ハイハイだ。
最初は、思うように前へ進まなかった。
右手を出せば、次は左足。
左手を出せば、右足。
頭では分かっている。
だが、身体はなかなか言うことを聞かない。
腕だけが先に出て腹を床へ落としたり、力の入れ方を間違えて横へ転がったりもした。
それでも何度か繰り返すうちに、少しずつ身体が動きを覚えていった。
今では、行きたいところへ自分で行ける。
速度は大したことがない。
大人が普通に歩けば、すぐに追いつかれる。
だが、サライが少し目を離した隙に移動するには十分だった。
◇
「カイト?」
台所から、サライの声が聞こえた。
俺はその時、廊下を進んでいた。
ユートの家は、かなり大きい。
最初は寝床と居間、それに台所くらいしか分からなかった。
だが、自分で移動できるようになってから、ようやく家の広さが見えてきた。
大きな居間。
家族が眠る部屋。
台所。
食料や道具を置く物置。
普段はほとんど使われていない部屋。
その間を、長い廊下が繋いでいる。
歩ける人間にとっては、何でもない距離なのだろう。
だが、今の俺には十分に探検しがいがあった。
「カイト?」
もう一度、サライの声がした。
少し慌てている。
どうやら、俺が寝床にいないことへ気づいたらしい。
心配させるつもりはない。
だが、今さら引き返す気にもならなかった。
今日の目的地は、物置だ。
以前、サライが扉を開けた時、奥にいくつもの木箱が置かれているのを見た。
中に何が入っているのか、気になっていた。
扉は少しだけ開いている。
あの隙間なら通れそうだ。
俺は身体を横へ向け、頭から隙間へ入った。
肩。
腕。
腹。
何とか通れる。
そのまま奥へ進んだ。
物置は薄暗かった。
小さな窓しかないせいだ。
壁際には木箱や籠が積まれ、天井からは乾燥させた草の束が吊るされている。
木。
土。
乾いた草。
それから、革のような匂い。
居間や寝室とは、まるで空気が違った。
近くにあった籠へ手を掛ける。
中には、細長い布が何枚も入っていた。
服を作るための材料だろうか。
隣の木箱には、小さな金属の道具が入っている。
釘。
留め具。
輪の形をしたもの。
家の修理に使うのかもしれない。
この家には、まだ俺の知らない物がたくさんある。
見るだけでも飽きなかった。
「カイトー!」
今度は、かなり大きな声だった。
まずい。
サライを心配させすぎたらしい。
戻ろうとした時、物置の入口に影が差した。
「いた!」
アニーだった。
床へ屈み、扉の隙間からこちらを覗いている。
心配しているというより、明らかに楽しそうだ。
「お母さん! カイト、物置にいるよ!」
「物置!?」
慌ただしい足音が近づいてきた。
アニーは扉を開け、俺の前へしゃがんだ。
「何してたの?」
「あう」
見ていた。
そう答えたつもりだ。
アニーは物置の中を見回した。
「探検?」
「あう」
「やっぱり!」
なぜ分かった。
アニーは嬉しそうに笑った。
そこへサライが駆け込んできた。
「カイト!」
俺を見るなり、その場へ膝をつく。
「もう、こんなところまで来て……」
抱き上げられた。
その腕には、少し強く力が入っていた。
「心配したのよ」
「あう」
悪かった。
だが、次から声を掛けてから行けと言われても、今の俺には無理だ。
「この子、本当に目が離せないわ」
サライはそう言いながら、俺の服についた埃を払った。
アニーは隣で笑っている。
「今日は物置だったね」
「今日はって、いつもみたいに言わないで」
「だって、昨日は食卓の下だったもん」
確かに昨日は、大きな食卓の下を調べた。
脚が太く、床には細かな傷がいくつも残っていた。
長い間使われている机なのだろう。
その前の日は、廊下の奥まで行った。
そこには大きな扉があったが、閉まっていて中へは入れなかった。
いずれ、あの先も見てみたい。
サライは大きく息を吐いた。
「アニー。カイトがいなくなったら、すぐに教えてね」
「うん。でも、探すの楽しいよ」
「楽しくありません」
サライは真剣だった。
アニーは、やはり楽しそうだった。
◇
それからも、俺の探検は続いた。
ある日は、大きな棚の下。
またある日は、薪を置いてある土間。
ユートが木剣を置く部屋へ入り込んだこともある。
サライが目を離すと、俺はすぐにいなくなる。
「カイト?」
その声が聞こえる頃には、もう別の部屋にいる。
サライは毎回、慌てて家中を探した。
アニーは、そのたびに面白そうについてくる。
「今日はどこかなあ」
「遊びじゃないのよ」
「でも、カイトは探検してるんでしょう?」
「そうかもしれないけど……」
サライは困った顔をする。
どうやら俺の探検は、母親の心臓にはあまり良くないらしい。
ユートだけは、ほとんど慌てなかった。
「カイトは?」
サライが尋ねると、ユートは少し考える。
「木剣のところだろう」
行ってみると、本当に俺がいる。
別の日には、
「縁側だ」
と言い当てた。
「どうして分かるの?」
「行きたい場所は、だいたい決まっている」
ユートは短く答えた。
俺の行動は、完全に読まれているらしい。
少し悔しい。
◇
その日も、朝からユートが庭で木剣を振っていた。
ヒュッ。
ヒュッ。
毎朝変わらない音。
俺は居間から廊下へ出て、縁側を目指した。
ハイハイにも、ずいぶん慣れた。
以前より速く動ける。
廊下を曲がり、開け放たれた戸の先へ進む。
朝の光が差し込んでいる。
縁側の板は日に焼け、ところどころ色が薄くなっていた。
その向こうに庭がある。
ユートはいつもの場所で木剣を振っていた。
足。
腰。
肩。
腕。
剣先。
縁側からなら、動きがよく見える。
俺はその場へ座り、しばらく眺めていた。
ヒュッ。
もう一度。
ユートの動きには、今日も無駄がない。
だが。
見ているうちに、別のことが気になった。
俺は、いつまでこうして床を這っているのだろう。
ハイハイでも、家の中なら十分に移動できる。
だが、遅い。
段差があれば止まる。
両手が塞がっているから、何かを持ちながら動くこともできない。
もっと自由に動きたい。
自分の足で立ちたい。
そして、歩きたい。
俺は縁側の柱を見上げた。
太い木の柱。
これなら掴まれる。
俺は柱へ近づき、両手を掛けた。
表面は滑らかだった。
長い間、人の手に触れ、磨かれてきたのだろう。
腕へ力を入れる。
上半身が起きた。
膝を床につけたまま、身体を柱へ寄せる。
次に右足を動かした。
足の裏を板へつける。
左足も同じように置く。
この身体には、立つだけの力はある。
問題は重心だった。
頭が大きくて重い。
少し前へ出ただけで、身体ごと引っ張られる。
腕だけで起きようとすれば、すぐに前へ倒れる。
足。
腰。
肩。
身体を一つにする。
俺は足の裏で板を押した。
柱を引き寄せる。
腰を前へ入れる。
少しずつ身体が持ち上がった。
膝が板から離れる。
足が震える。
頭が前へ傾く。
柱を握る手へ力を込めた。
もう少し。
腰が上がる。
膝が伸びる。
両足が、しっかりと板を踏んだ。
立った。
柱につかまったままだ。
足も震えている。
それでも、自分の力で立っている。
やっと立てた。
嬉しかった。
庭で木剣を振っていたユートが、動きを止めた。
こちらを見る。
目が少し大きくなっている。
驚いているのか?
俺は柱につかまったまま、笑った。
「あうあう」
ユートはしばらく俺を見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……立ったか」
その声が聞こえた直後。
「カイト?」
家の中からサライの声がした。
足音が近づいてくる。
縁側へ出てきたサライが、俺を見て立ち止まった。
「えっ……」
その後ろから、アニーも顔を出す。
「カイト、立ってる!」
大きな声が家中に響いた。
「お母さん! カイトが立ってるよ!」
「見れば分かります!」
サライはそう答えながら、慌てて俺の後ろへ回った。
いつ倒れても支えられるように、両手を広げている。
「カイト、危ないから無理しないで」
「あう」
無理ではない。
立てることは分かった。
問題は、このままどれだけ保てるかだ。
足が震えている。
腕にも力が入っている。
長くは持たない。
それでも、すぐには座りたくなかった。
立って見る家は、床から見る家とは違った。
視界が高い。
縁側の向こうが、少し広く見える。
アニーが隣で跳ねた。
「すごい、カイト!」
その振動で縁側の板がわずかに揺れた。
身体が傾く。
手が柱から滑った。
後ろへ倒れかけた俺を、サライがすぐに抱き上げた。
「もう、危ないでしょう」
「あう」
だが、俺は笑っていた。
一度立てた。
なら、また立てる。
そして、立てるなら次は歩ける。
アニーはまだ嬉しそうに笑っている。
「カイト、今度は歩くの?」
「あう」
そのつもりだ。
サライは困ったように笑った。
「ますます目が離せなくなるわ」
ユートは木剣を肩へ担ぎ、縁側へ戻ってきた。
俺の顔を見る。
「次は歩くか」
「あうあう」
俺はまた笑った。
家の中には、まだ見ていない場所がある。
閉じたままの扉。
物置の奥。
届かない棚。
それに、家の外。
立てるようになれば、見えるものが増える。
歩けるようになれば、行ける場所も増える。
俺の探検は、まだ始まったばかりだった。




