初めての外
第四話 初めての外
生まれて三か月。
俺の世界は、少しずつ広がっていた。
最初は寝床だけだった。
次に部屋。
それから窓の外。
そして今日は、いよいよその先へ出るらしい。
「カイト、今日はお外へ行きましょうね」
サライがそう言いながら、俺を抱き上げた。
「あう」
外。
その言葉を聞いて、自然と声が出た。
窓から見える景色だけでは、この世界のことはまだよく分からない。
人が歩く姿。
荷車。
並んだ家。
遠くの畑と森。
毎日見てはいる。
だが、ガラス越しに眺めるのと、実際に外へ出るのでは違うはずだ。
今日は、俺も少し楽しみだった。
「カイト、初めてのお散歩だよ!」
アニーは朝から上機嫌だった。
自分が出掛けるというより、俺を外へ連れていくことが嬉しいらしい。
「私が案内してあげるね!」
案内か。
それはありがたい。
ただし、俺はまだ歩けない。
すべて抱かれたままだ。
その辺りをアニーが理解しているのかは分からない。
玄関の扉が開いた。
柔らかな風が頬を撫でた。
家の中とは、空気が違う。
草の匂い。
土の匂い。
どこかから流れてくる煙の匂い。
さらにその中へ、香ばしい匂いが混じっている。
パンだ。
焼きたてなのだろう。
思わず鼻を動かした。
なかなかいい匂いだ。
朝の食卓に並んでいたものと同じだろうか。
表面は少し硬そうだが、中は柔らかそうだった。
早く食べてみたい。
だが残念ながら、今の俺には関係がない。
俺の主食は、相変わらず母親の乳である。
こればかりは、成長を待つしかない。
「ほら、カイト。いいお天気でしょう」
サライの腕の中から空を見上げる。
高い。
窓から見ていた時より、ずっと広く感じる。
雲がゆっくり流れている。
青い空そのものは、以前の世界と変わらない。
だが、どこまで見ても飛行機の姿はない。
エンジン音も聞こえない。
少しだけ不思議な気分だった。
空は、俺にとって戦う場所だった。
敵を探し、味方を守り、いつ撃たれるかも分からない場所。
それが今は、静かに広がっている。
こんなふうに空を見上げたことが、前にもあっただろうか。
思い出せなかった。
◇
家の前には、土の道が伸びていた。
窓から見ていた時にも分かっていたが、実際に外へ出てみると、思っていたより幅がある。
荷車が二台、ぎりぎりすれ違えるくらいだ。
道の両側には、木と石で造られた家が並んでいる。
土台と壁の下半分は石。
その上へ太い木材を組み、隙間を白い壁材で埋めている。
屋根には赤茶色の板か瓦のようなものが重ねられていた。
家ごとに形は少し違う。
だが、どれも風や雨に耐えられるよう、しっかり造られている。
窓は小さい。
ガラスが入っている家もあれば、木の板で閉じるだけの家もある。
豊かな家と、そうでない家があるのだろう。
それでも、今のところ荒れた印象はない。
道には人が多かった。
籠を抱えた女。
木材を担ぐ男。
子供を連れた老人。
荷物を積んだ荷車。
誰もが朝から忙しそうに動いている。
着ている服は、ほとんどが丈夫そうな布製だった。
色は茶色や灰色が多い。
アニーのように明るい色の服を着ている子供もいる。
腰にナイフや短い剣を下げている男も珍しくない。
やはり、この世界では刃物が日用品に近いらしい。
「サライ、おはよう」
「おはようございます」
向こうから来た女が、サライへ声を掛けた。
大きな籠に、緑色の野菜が山ほど入っている。
「あら、今日はカイトも一緒なのね」
「ええ。初めてのお散歩なんです」
「まあ、大きくなったわねえ」
女が俺の顔を覗き込んだ。
大きくなったと言われても、自分ではよく分からない。
以前より腕も足も動くようにはなった。
だが、相変わらずサライの腕の中にすっぽり収まっている。
「あう」
「ふふ。元気そうね」
女は笑いながら、俺の頬へ指を近づけた。
またか。
この世界の人間は、赤ん坊の頬に触れずにはいられないのだろうか。
柔らかいから仕方がないのかもしれない。
「アニーも、ちゃんと弟のお世話をしてる?」
「してるよ!」
アニーは胸を張った。
「カイトは私のことが大好きなんだから」
そこまで言った覚えはない。
だが、アニーは間違いないという顔をしている。
女は声を上げて笑い、そのまま道の向こうへ歩いていった。
少し進むと、今度は年配の男がユートのことを尋ねた。
「今日はユートは?」
「朝から森の方へ行っています」
「またか。相変わらず働く男だな」
どうやらユートは、町の人間からよく知られているらしい。
サライも、歩くたびに誰かから声を掛けられる。
アニーも同じだ。
この家族は、この町で嫌われてはいない。
むしろ、かなり親しまれている。
それは少し安心できることだった。
見知らぬ世界で生きていくなら、周囲との関係は大事だ。
まして今の俺は、自分では何もできない。
家族が町で孤立していないというだけで、ずいぶん違う。
「カイト、あそこ!」
アニーが前方を指差した。
道の角に、人が何人も集まっている店がある。
店先には丸いパンが並べられていた。
「パン屋さんだよ!」
やはり、さっきの匂いはあそこから来ていたらしい。
焼きたてのパンが、木の台へ次々と並べられている。
丸いもの。
細長いもの。
表面へ何かの種を散らしたもの。
見た目だけでも、いくつか種類がある。
サライが店の前で立ち止まった。
「パンを買っていきましょうか」
「うん!」
アニーは大きく頷いた。
店の中から、太った女が出てきた。
「あら、サライ。今日は珍しいお客様も一緒ね」
「初めて外へ連れてきたんです」
「まあまあ。カイト、町へようこそ」
女は俺へ向かって笑い掛けた。
町へようこそ。
そう言われて、初めて気づいた。
ここは、ただ家が並んでいるだけの場所ではない。
クラム。
それが、この町の名前だった。
サライやアニーの会話の中で何度も聞いている。
窓から眺めていた頃は、まだ実感がなかった。
だが今、ようやくその名前と景色が繋がった。
ここがクラム。
俺が生まれた町。
そして、これから育っていく場所らしい。
◇
パン屋を離れ、さらに道を進む。
肉を吊るした店。
布を並べた店。
木の桶や皿を売っている店。
どの店も大きくはない。
だが、人の出入りは多い。
町の中央へ近づくにつれ、道幅も広くなっていった。
中央には井戸がある。
その周りへ何人もの女たちが集まり、水を汲みながら話をしている。
少し離れたところでは、子供たちが木の棒を振り回して遊んでいた。
一人が剣士の真似をし、残りが逃げ回っている。
危なっかしいが、楽しそうだ。
「カイトも大きくなったら、一緒に遊ぶんだよ」
アニーが俺へ言った。
「あう」
それは悪くない。
ただし、あの振り方は少し雑だ。
腕だけで棒を振り回している。
あれでは、すぐに疲れる。
もっと腰を使った方がいい。
そんなことを考えている自分に気づき、少し驚いた。
俺は剣を握ったことなどない。
それでも、毎朝ユートの動きを見ているせいか、違いだけは分かるようになってきた。
人の動きを見るのは、以前からの癖だった。
敵機が旋回へ入る前の翼の傾き。
機首の向き。
速度の落ち方。
相手が次に何をするのか。
空では、それを見誤れば死ぬ。
その習慣が、身体が変わっても残っているらしい。
その時。
カン!
乾いた音が聞こえた。
続けて、もう一度。
キン!
俺は音のする方へ顔を向けた。
道の先に、入り口を大きく開けた建物がある。
中では火が燃えていた。
赤い光。
黒い煙。
そして、鉄を叩く音。
「鍛冶屋さんだよ!」
アニーが嬉しそうに言った。
俺は声も出さず、その建物を見た。
◇
鍛冶場の中は熱そうだった。
大きな炉の前に、腕の太い男が立っている。
革の前掛け。
汗に濡れた腕。
手には重そうな槌。
もう一人の男が、長い鉄ばさみで赤く焼けた金属を押さえている。
槌が振り下ろされた。
カン!
火花が飛ぶ。
もう一度。
キン!
赤い鉄が、少しずつ形を変えていく。
ただ叩いているわけではない。
槌を当てる場所。
角度。
強さ。
一打ごとに違う。
打つ方も、押さえる方も、ほとんど言葉を交わさない。
それでも、動きは合っている。
長く一緒に仕事をしているのだろう。
俺は、その様子から目を離せなかった。
零戦を整備する整備兵たちを思い出した。
油に汚れた手。
機体へ潜り込む背中。
僅かな異音を聞き逃さない耳。
飛ぶのは俺たちだった。
だが、機体を空へ返してくれたのは、あの人たちだ。
時代も違う。
作っている物も違う。
だが、人が技術を磨き、手の中で物へ形を与える姿はよく似ていた。
やがて、赤い鉄が水の中へ入れられた。
激しい音とともに、白い蒸気が上がる。
俺は思わず腕を動かした。
「カイト、びっくりした?」
サライが笑う。
違う。
驚いたというより、もっとよく見たかった。
「あう」
鍛冶屋の男が、こちらに気づいた。
「おや、サライじゃないか」
「こんにちは」
「その子がカイトか」
「ええ」
男は槌を置き、汗を拭いながら近づいてきた。
顔も腕も大きい。
だが、笑うと穏やかな目をしていた。
「ずいぶん熱心に見てるじゃないか」
「この子、ユートが剣を振っている時も、ずっと見ているんです」
「ほう」
男は俺の顔を覗き込んだ。
「親父に似て、剣が好きなのかもしれんな」
剣が好きか。
まだ、分からない。
ただ。
ユートの動きも。
赤く焼けた鉄が形を変えていく様子も。
見ていて飽きなかった。
男は作業台の上に置かれた、短い金属片を手に取った。
剣を作る途中で切り落としたものだろう。
もちろん、俺へ渡すことはしない。
少し離れたところで見せるだけだ。
「これが、さっきまで真っ赤だった鉄だ」
黒い金属。
表面には槌の跡が残っている。
まだ剣ではない。
ただの鉄だ。
それでも、何度も熱し、叩き、削れば刃になる。
人を守る道具にもなる。
人を殺す武器にもなる。
零戦と同じだった。
作る者がいて、使う者がいる。
その使い方を決めるのは、人間だ。
◇
帰り道。
俺はサライの腕の中で、今日見たものを思い返していた。
家。
店。
井戸。
町の人々。
パン屋。
鍛冶場。
クラムは、思っていたより大きかった。
村と呼ぶには、人も店も多い。
だが、王都や大きな街というほどではないだろう。
森と畑に囲まれた、小さな町。
人々は互いの顔を知り、すれ違えば声を掛け合う。
今のところ、悪くない場所だった。
「カイト、楽しかった?」
サライが俺を覗き込む。
「あう」
本当は、もっと見ていたかった。
だが、身体が少し疲れている。
外の光。
音。
匂い。
家の中とは比べものにならないほど情報が多かった。
赤ん坊の身体には、それだけでも負担になるらしい。
瞼が少し重くなってきた。
「眠くなったのね」
今度は正解だ。
俺はサライの胸元へ顔を寄せた。
その時、道の向こうからユートが歩いてきた。
肩には薪の束。
腰には剣。
朝から森へ行っていたらしい。
「お父さん!」
アニーが駆けていく。
ユートは薪を持ったまま、空いた手でアニーの頭を撫でた。
「散歩か」
「うん! カイトに町を見せてきたの!」
「そうか」
ユートが俺を見る。
俺も、その腰へ目を向けた。
黒い鞘。
革を巻いた柄。
鍔は大きくない。
鍛冶場で剣が作られるところを見た直後だからか、以前より細かい部分まで気になった。
気づけば、手を伸ばしていた。
ユートの視線が俺の手へ落ちる。
「剣か」
俺は指を動かした。
「あう」
ユートは肩の薪を地面へ置いた。
そして、腰から剣を外す。
もちろん、抜きはしない。
鞘へ収めたまま、俺の手が届くところまでゆっくり近づけた。
指先が鞘へ触れた。
木だ。
表面には黒い塗料が塗られている。
見た目より硬い。
手入れがされているのだろう。
少し滑らかだった。
俺は指を閉じようとした。
だが太くて握れない。
それでも、手のひらを押し当てる。
鞘の中にある刃の重さが、わずかに伝わってくる。
玩具ではない。
本物の武器だ。
ユートは、俺の顔をじっと見ていた。
「気になるのか」
「あう」
返事をすると、ユートの口元が少しだけ緩んだ。
「まだ早い」
それだけ言うと、剣を腰へ戻した。
当然だ。
今の俺には、鞘を握ることすらできない。
だが。
いつか、自分の手で持ってみたい。
その時、初めてそう思った。
◇
夜。
寝床の中で天井を見上げながら、今日見た景色を思い出す。
焼きたてのパン。
町の中央にある井戸。
道を行き交う人々。
赤く焼けた鉄。
飛び散る火花。
ユートの剣。
そして、クラム。
今日まで、俺の世界はこの家の中にあった。
だが、その外にも人が暮らしている。
働き。
笑い。
物を作り。
毎日を生きている。
前の世界とは何もかも違う。
飛行機もない。
電気もない。
代わりに、剣があり、角の生えた馬がいる。
まだ知らないものも、数えきれないほどあるのだろう。
だが、不思議と不安はなかった。
サライの腕の温かさ。
アニーの笑い声。
ユートの静かな目。
そして、町の人々の笑顔。
クラム。
小さな町だ。
それでも。
今日一日で、この町のことを少し好きになった。




