第4話(前編2)――「破られたのは写し」
エレオノーラは書類をもう一度確かめた。
筆跡はよく似せてあるが、自分が書いたものとは思えない。
もちろん、筆跡が違うと主張するだけでは、誰が書いたのか分からない。しかし、本人が承認していない以上、このまま見過ごすわけにはいかなかった。
「家令、この書類は私の財産に関するものです。原本は私が預かります。必要なら、兄上にも確認していただくつもりです」
「しかし奥様、公爵家の大切な書類でございますので……」
「だからこそ、大切に扱うのです。私の名前を勝手に使った者がいるのなら、そのままにしておくわけにはいきません」
エレオノーラがはっきり言うと、家令はそれ以上反対できなかった。
書類が正式に保管されていたものであることを双方で確認したうえで、エレオノーラが預かることになった。
家令たちが退室すると、エレオノーラは侍女を呼んだ。
「この書類を全部写してちょうだい。それから、署名のある本物の書類は、兄上のところへ届けてもらうわ」
「国王陛下へお届けするのでございますか?」
「ええ。とても大事なものだから、間違いなく届けてほしいの。私からの手紙も添えるわ」
エレオノーラは机に向かい、国王宛ての手紙を書き始めた。
レオンの占いでは、アルベルトが書類を破り捨てるところが見えた。
それなら、本物の書類は先に王宮へ預けておけばいい。
夫がどれほど怒ったところで、証拠を消すことはできなくなる。
エレオノーラは手紙を書き終えると、書類の原本とともに封筒へ収め、王宮へ届けるよう侍女に頼んだ。
準備が整ったところで、家令を呼び戻した。
「アルベルトに、私の部屋へ来るよう伝えてください。お金のことで、直接話があります」
家令は何か言いかけたが、エレオノーラの表情を見て、そのまま退室した。
エレオノーラは卓の上に書類の写しを並べ、夫が来るのを待つことにした。
◇ ◇ ◇
午後になると、アルベルトがエレオノーラの私室へやってきた。
いつもより機嫌が悪いようで、部屋に入るなり不満を口にした。
「エレオノーラ、何の用だ。今日は商人との約束もあるのだぞ。金の話なら家令に任せればよいだろう」
「家令から書類を見せてもらいました。それについて、あなたに聞きたいことがあるのです」
エレオノーラは夫に椅子を勧めたが、アルベルトは座ろうとしなかった。
「何だ、まだサルヴィ商会のことを調べているのか。あの商会とは以前から取引している。別におかしなことではないだろう」
「商会と取引することが悪いと言っているのではありません。私の財産からお金を出した理由を聞いているのです」
「公爵家の事業に必要だったからだ。それ以外に何がある」
「では、具体的に何の事業だったのか教えてください」
アルベルトは面倒そうに顔をしかめた。
「運送に関する仕事だ。細かなことまで私に尋ねられても困る。家令に聞けば分かるだろう」
「先ほど家令に聞きました。でも、詳しいことは分からないそうです」
「ならば、商会に聞かせればよいではないか」
「あなたが必要だと判断して、私のお金を使ったのでしょう? それなら、何に使ったのか説明できるはずです」
アルベルトは苛立ち始めた。
エレオノーラはこれまで、公爵家の仕事について細かく口を挟むことは少なかった。自分の財産は確認していたものの、夫が進める事業については、ある程度任せていたのである。
その妻が、今日はまったく引き下がろうとしない。
「エレオノーラ、お前は私の妻だぞ。公爵家のために多少の金を使ったからといって、そこまで騒ぐ必要があるのか?」
「多少のお金ではありません。それに、金額の問題だけではないのです」
エレオノーラは卓の上の書類を指した。
「このお金は、私の持参金から生じた収入です。あなたもご存じのとおり、私自身が管理することになっている財産です。公爵家の事業に使うのであれば、先に私へ相談していただく約束でしょう?」
「夫婦なのだから、金をそこまで分けて考える必要はないだろう」
「私はそうは思いません」
エレオノーラは、夫の顔をまっすぐ見た。
「私は公爵家へ嫁いだのであって、すべての財産をあなたに差し出したわけではありません」
アルベルトは一瞬、返事に詰まったが、すぐに声を荒らげた。
「女が男の仕事に口を出すな! 公爵家を維持するために、私がどれだけ苦労していると思っているのだ!」
「あなたのお仕事の苦労は理解しているつもりです。でも、それと私のお金を勝手に使うことは別でしょう」
「勝手に使ったわけではない! お前も承認しているではないか!」
アルベルトは卓の上に置かれた書類を指した。
「そこに署名があるだろう。それが何よりの証拠だ!」
エレオノーラは、その言葉を待っていた。
夫が自分の署名を持ち出してくることは、十分に予想していたのである。
「そのことも、お聞きしたかったのです」
彼女は署名のある書類の写しを、アルベルトの前へ差し出した。
「私は、この書類に署名した覚えがありません。あなたは、私がいつ、どこで署名したのかご存じですか?」
アルベルトの顔色が変わった。
「何を馬鹿なことを言っている。署名があるのだから、お前が書いたに決まっているだろう」
「いいえ。私は書いていません」
「忘れているだけではないのか? 公爵家では毎日のように書類が作られているのだぞ」
「それほど大きな支出を承認して、忘れるはずがありません。それに、自分が書いた字かどうかくらい分かります」
アルベルトは差し出された紙を手に取り、しばらく眺めていたが、やがて乱暴に卓へ戻した。
「くだらん! お前は私が金を使ったことに腹を立てて、今度は署名まで偽物だと言い出すつもりか!」
「私は署名していないと言っているのです。誰が私の名前を書いたのか、調べてください」
「もうよい! こんなものを持ち出して、いつまで私に文句を言うつもりだ!」
アルベルトは卓の上の紙をつかみ、エレオノーラの目の前で引き裂いた。
さらに、破れた紙を床へ投げ捨てた。
「これで気が済んだか! お前が何と言おうと、公爵家の事業に必要な金だったのだ!」
エレオノーラは床に落ちた紙を見た。
レオンの占いで聞いていたとおりだった。
夫は本当に、腹を立てて書類を破り捨てたのである。
しかし、今回は困らなかった。
「あなた、そんなに怒る必要はありませんわ」
「何だと? お前がしつこく金のことを言い出したのだろう!」
「その紙は写しです。本物はもう、兄上のところへ届けてありますから」
アルベルトの顔から血の気が引いた。
「な、何だと……?」
「私は、自分が署名していないことを確かめてもらうつもりです。あなたが書類を破っても、本物は王宮にあります」
「お前……国王陛下に知らせたのか!」
「もちろんです。私の署名が勝手に使われているのですから、兄上にも相談するつもりでいました」
「夫婦の問題を、いちいち王宮へ持ち込むつもりか!」
「夫婦の問題ではありません。誰かが私の名前を勝手に使ったことが問題なのです」
アルベルトは床に散らばった紙を見た。
怒りに任せて破ったものの、本物が王宮にあるのなら、何の意味もなかった。
しかも、国王がこのことを知れば、公爵家の金の使い道まで調べられるかもしれない。
「エレオノーラ、お前は私を陥れるつもりなのか!」
「私があなたを陥れる必要などありません。あなたが何も悪いことをしていないのであれば、調べてもらって困ることはないでしょう?」
アルベルトは反論しようとして口を開いたが、何も言えなかった。
これまでは怒鳴れば引き下がっていた妻が、今日はまったく動じない。
しかも、こちらが怒って書類を破ることまで予想していたかのように、すでに手を打っていた。
アルベルトは、どうしてエレオノーラが急に強気になったのか理解できなかった。




