第3話(中編1)――「離婚届を出す前へ」
「38歳か。お前がわしの店へ来る10年ほど前になるな。随分昔へ戻りたいものだ」
「そうだよ。あのころの私は、夫が浮気をしていることに気付いても、どうすればいいのか分からなかった。証拠を集める方法も知らなかったし、弁護士に相談する金だって惜しかったんだ」
レオンは前世での離婚を思い返した。
夫の高瀬修一は、真理子との生活に不満があると繰り返し、離婚を求めてきた。真理子は何とか結婚生活を続けようとしたものの、修一の態度は変わらず、結局、慰謝料として10万円を受け取って離婚した。
その後になって、水野沙也香との関係が以前から続いていたことを知ったが、すでに婚姻は終わっていた。
「あいつは私に10万円を渡して、それで全部終わったつもりだったんだ。私は住むところも仕事も探さなければならなくなったのに、修一と沙也香は何食わぬ顔で暮らしていた。今でも思い出すと腹が立つよ」
老人は口を挟まずに聞いていた。
「私が38歳だったころへ戻れるなら、今度はあいつの言いなりにはならない。まず浮気の証拠を集める。必要なら探偵も雇うし、弁護士にも相談する。自分にどんな権利があるのか確かめてから、離婚の話をするつもりだ」
「なるほど。昔のお前とは、随分考え方が変わったようだな」
「そりゃあ変わるよ。こちらの世界では、領地の契約も王軍との取引も自分で判断しているんだぞ。あんな男に押し切られるほど、今の私は甘くない」
老人は満足そうに笑った。
「それなら、わしがあれこれ言わんでも大丈夫そうだ。ただし、昔の夫に腹を立てているからといって、占いの力だけですべて片付けようとするなよ。お前もさっき話していただろう。占いで何か見えたとしても、実際の証拠は別に必要なんだからな」
「分かっているよ。今度こそ、きちんと調べてから動くつもりだ」
老人はレオンが帰りたい時期を聞いたうえで、その年月を紙へ書き留めた。
しかし、すぐに過去へ戻る方法を教えるわけではなかった。
「お前の希望は分かった。ただ、今のままでは難しいだろうな。世界を渡るには、扉が開くだけでは足りん。向こう側へ移動する人間にも、それに耐えられるだけの条件が必要なんだ」
「私には、まだ何か足りないのか?」
「その可能性が高い。お前が先ほど話していた、身体への適応というものが関係しているのかもしれん」
レオンは、占術が的中するたびに視界へ現れてきた文字を思い出した。
《身体適応が進みます》
その表示は、初めて見た時から何度も現れている。しかし、身体のどこが変化しているのか、何のために適応が進んでいるのかは分からなかった。
「爺さん、あの表示には、やっぱり何か意味があるのかな」
「意味はあるだろう。だが、わしにはその表示が見えんし、お前の身体がどう変わっているのかも分からん。世界を渡るための準備が進んでいるのかもしれんが、今のところは推測だ」
「そうか。もう少しで帰れると言ってもらえれば嬉しかったんだけどな」
「気の早いことを言うな。たった今、帰る道があると知ったばかりじゃないか。それに、お前は今の暮らしを捨てたくないと言っておっただろう。帰る方法だけ分かっても、こちらへ戻る方法が分からなければ困るんじゃないのか?」
レオンは、その言葉に納得した。
日本へ戻れるというだけでは十分ではない。今の自分には、家族も領地もある。何より、エレオノーラと離れたままになってしまうことなど考えられなかった。
「私が欲しいのは、日本へ帰りっぱなしになる方法じゃないんだ。昔の問題を片付けたら、必ずこちらへ戻ってきたい。エレオノーラと一緒に暮らしていくつもりだからな」
「なら、まず帰り道まで確かめることだ。行きはよいよい、帰りはどうにもならん、では笑い話にもならんぞ」
老人はそう言って笑ったが、レオンにとっては決して軽い問題ではなかった。
日本へ帰ることができても、異世界へ戻れなくなれば、それまで築いてきた生活を失うことになる。
今すぐ試してみたい気持ちはあったが、そんな危険を冒すわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
老人は卓の上の本を閉じると、立ち上がって部屋の奥へ向かった。
そこには背の高い鏡が置かれていた。卓や本棚のある場所からは死角になっており、レオンも今まで気付いていなかった。
老人は鏡の前に立ち、レオンを呼んだ。
「ちょっと、こちらへ来てみろ。今のお前の身体について、確かめておきたいことがある」
「鏡を見れば、何か分かるのか?」
「鏡そのものに特別な力があるわけじゃない。お前が今、どんな身体になっているのか、自分でよく見てみるといい」
レオンは鏡の前へ進んだ。
そこには、18歳のレオン・ローデンが映っていた。整った顔立ちに、鍛えられた身体。日本で48歳だったころの高瀬真理子とは、何もかも違っている。
老人は鏡に映ったレオンを眺め、感心したように言った。
「改めて見ると、本当に見事に若返ったものだな。しかも、随分男前じゃないか。お前、昔の自分と比べて、どちらの姿が気に入っておる?」
「今はレオンとして暮らしているんだから、こっちの姿に不満はないよ。若いし、力もあるし、男として生活することにも慣れたからな」
「それは結構。ただ、日本へ帰るとなれば話は別だ。お前が38歳だったころへ戻るなら、その時代には高瀬真理子という女が暮らしておったはずだろう」
レオンは鏡の中の自分を見た。
「そうだな。私が38歳だったころは、まだ修一と結婚していた。夫婦で同じ家に暮らしていたんだ」
「その家へ、突然18歳の若い男が現れたらどうなる?」
「そりゃあ、修一だって驚くだろうな。見知らぬ男が家に入り込んでいたら、警察を呼ばれてもおかしくない」
老人は笑った。
「そういうことだ。だから、単に日本へ移動するだけでは済まん。元の人生へ戻るなら、その時代のお前自身として暮らせる必要がある」
レオンは老人の説明を聞き、考え込んだ。
もし38歳だったころへ帰るとしても、そこに高瀬真理子がもう1人存在するのであれば、自分はどうすればよいのだろうか。同じ時代に真理子が2人いることになれば、修一との関係だけでなく、戸籍や生活のすべてが面倒なことになってしまう。
老人はレオンの疑問を察したのか、説明を続けた。
「わしが調べた事例では、本人が自分の過去へ戻った場合、同じ人間が2人現れるわけではないらしい。過去の自分が送っていた生活へ、今持っている記憶を引き継ぐ形になるようだ」
「それなら、38歳だったころの真理子として生活を続けられるわけか」
「そういう可能性がある。ただし、わし自身が10年も前へ戻って確かめたわけではない。お前が望んだとおりに行けるかどうかは、まだ分からんぞ」
レオンは鏡に映る自分の顔を見ながら、もう1つ気になっていたことを尋ねた。
「爺さん、それじゃあ、もし私が38歳の真理子に戻ったら、このレオンの身体はどうなるんだ?」
「そこも重要なところだな。今のお前がこちらの世界で築いてきた生活を失わず、元の世界へ戻れる方法を考えなければならん。わしの知る限り、世界を渡ったことで、残してきた世界の出来事がすべて消えてしまうわけではない」
老人は鏡の横にある小さな棚から、薄い冊子を取り出した。
そこには以前、老人が別の世界へ移動した時の記録が残されていた。出発する前に置いていった品物や、帰還後に再会した人物のことが書き留められている。
「わしの場合、別の世界から戻っても、そこにいた者たちとの関係が消えたことはなかった。帰った先での時間のずれはあったが、移動する前の出来事がなかったことになったわけでもない」
「それなら、私が日本へ戻っても、ローデン領やエレオノーラが消えてしまうわけじゃないんだな」
「わしの経験からすると、そう考えてよいだろう。ただし、お前のように過去へ戻りたい場合も同じかどうかは、慎重に確かめる必要がある。自分に都合のいい答えだけを信じるんじゃないぞ」




