第3話(前編2)――「戻りたいのは38歳」
レオンは驚いた。
日本へ帰る道など、考えても仕方がないと思っていた。元の世界に戻れるのなら、修一と沙也香がその後どうしているのか、自分が暮らしていた場所はどうなっているのか、確かめてみたい気持ちはある。
ただ、今の生活を捨てて日本へ帰るつもりはなかった。
「日本へ行けるのなら、一度は戻ってみたいよ。でも、私には今の家族もいるし、エレオノーラもいる。こちらへ帰ってこられなくなるのなら、簡単には決められないな」
「それはもっともだ。今すぐ何もかも捨てて日本へ帰れと言っているわけじゃない。お前が何を望んでいるのか、確かめておきたかったんだ」
老人は本の表紙に手を置いた。
「世界の境を越える方法はある。ただし、今のお前に使えるかどうかは別の話だ。それなりの条件を満たさなければ、元の世界へ戻ることはできん」
レオンは思わず椅子から身を乗り出した。
「爺さん、本当に日本へ帰る方法を知っているのか? 私はもう、二度と戻れないものだと思っていたんだぞ!」
「嘘を言ってどうする。もっとも、わしにも分からんことは多いし、お前が今すぐ帰れるとは言っておらん。そこは勘違いするなよ」
「分かった。それでも方法があるなら知りたい。私がこちらへ来た理由だって、何か手掛かりが見つかるかもしれないからな」
老人はレオンの言葉を聞き、卓の上の本を開き直した。
「よかろう。お前には話しておいた方がよさそうだ。ただ、その前に1つ確かめておきたい。お前が本当に帰りたいのは、48歳だったころの日本なのか?」
レオンは、その問いかけにすぐには答えられなかった。
48歳だったころの自分は、すでに修一と離婚して10年が経っていた。あの時点へ戻ったところで、離婚の時に何もできなかった過去が変わるわけではない。
それなら、日本へ帰ることができるとして、自分はいったい何をしたいのだろうか。
老人は考え込むレオンの様子を見ながら、さらに話を続けた。
「お前は、帰る場所を考えておるんだろう。だが、世界の境を越える道には、場所だけでなく時間も関わってくる。わしもすべてを理解しているわけではないが、今まで調べたことから分かってきたことがあるんだ」
レオンは老人の顔を見た。
「爺さん、時間も関わってくるって、どういうことなんだ? まさか、日本へ戻る時代まで変わるというのか?」
「そういう可能性もある。だから、お前が48歳だったころへ帰りたいのか、それとも別の時期へ戻りたいのか、先に聞いておきたかったんだ」
レオンは目の前の古い本へ視線を移した。
日本へ戻る道が存在するだけでも驚きだったのに、老人は帰る時期についても選べる可能性があると言っている。
もし、それが本当なら。
レオンが真っ先に思い浮かべたのは、48歳で暮らしていたアパートではなかった。
まだ修一と夫婦だったころの自宅である。
離婚を迫られ、十分な証拠もないまま追い詰められていた、あのころの自分だった。
レオンは老人へ向き直った。
「爺さん、その時間の話を詳しく聞かせてくれ。私には、どうしても確かめておきたいことがあるんだ」
老人はレオンの顔を見て、手元の古い本を開いた。
老人が開いた本には、レオンの知らない文字や図形がびっしりと書き込まれていた。
円を重ねた図の周囲には細かな数字が並び、別のページには星の位置を記録したような線が引かれている。日本語らしい文字もところどころ混じっていたが、何を説明しているのかは分からなかった。
老人は数ページをめくり、2つの円が交わる図を指した。
「まず、わしがどうやって世界を渡ったのか、そこから話そう。お前には、この部屋が迷宮の地下10階にあるように見えるだろう。実際、扉の外はお前の領地の迷宮だ。だが、この部屋そのものが、最初から地下10階に造られていたとは限らんのだ」
「そういえば、爺さんは日本からこの世界へ来たと言っていたな。ここは爺さんが造った部屋なのか?」
「いや、わしが来た時には、すでにあった。誰が造ったのかも分からん。わしが知っているのは、この場所を通って、異なる世界へ移動できる場合があるということだけだ」
老人の説明によれば、世界を渡る際には、どの世界へ向かうかだけでなく、そこに存在する時間も関係するという。
日本とこの世界では、時間が必ずしも同じ速さで進むわけではない。老人自身、別の世界で何日も過ごしたあと日本へ戻り、出発した時からほとんど時間が経っていなかった経験があるらしい。
「最初は驚いたぞ。何日も旅をして疲れ切って帰ったのに、店の時計を見たら、思っていたほど時間が経っておらん。わしはとうとう頭がおかしくなったのかと思った」
「爺さんでも驚くことがあるんだな」
「当たり前だ。わしを何だと思っておる。それに、帰った先が見慣れた店だったからよかったものの、別の場所へ出ていたら、帰り道を探すだけでも大変だっただろうな」
老人は笑ったが、当時の出来事を記したページには、細かな日付と時刻が残されていた。
レオンは記録を眺めながら、もう一度考えた。
「でも、それは日本とこの世界で時間の進み方が違うという話だろう。さっき爺さんは、帰る時期を選べる可能性があると言ったよな。過去へ戻ることもできるのか?」
「そこが難しいところだ。世界を渡る時には、今いる場所からまっすぐ同じ時刻へ進むとは限らん。わしが調べた限りでは、強い結び付きのある場所や時期へ向かいやすくなる場合がある。ただし、望んだ年の望んだ日に必ず到着できるとまでは言えんぞ」
老人は別のページを開き、日本語で書かれた記録を示した。
そこには、以前老人が世界の境を越えようとした時、帰還先の時期を意識して占った経緯が記されていた。実際に移動できたこともあれば、扉が開かなかったことや、予想と異なる時刻へ戻ったこともあったらしい。
「つまり、帰りたい場所や時期をはっきりさせることが大事なんだな」
「そういうことだ。お前の占術は、わしが使ってきたものよりも、未来の出来事を詳しく見られるようだ。そこに何か可能性があるかもしれん。ただ、占いで行き先を知ることと、実際にそこへ渡ることは別の話だぞ」
レオンは本の図を見つめた。
世界を渡るだけでも途方もない話である。それなのに、過去の日本へ戻れる可能性があるという。
もし老人の話が正しければ、もう終わったと思っていた自分の人生にも、別の道が残されていることになる。
「爺さん、私が戻りたい時期は決まっているんだ」
「ほう。48歳だったころより前か?」
「ああ。38歳だったころだ。修一と離婚する前に戻りたい。できれば、あいつから離婚を迫られるよりも前がいい」
老人はレオンの話を聞き、卓の上に置いてあった紙を引き寄せた。




