第5話(後編)――「修一と沙也香」
7月下旬、グランツ公爵一行がハルベル伯爵領を離れる日が近づいていた。
アルベルトは西部の視察を終えると、次の領地へ向かう予定である。
ところが前日に降った雨で、北側の山から川へ大量の水が流れ込み、予定していた街道をそのまま使えるか分からなくなった。
レオンは午後、再び城へ呼ばれた。
部屋にはアルベルト、セシリア、ハルベル伯爵、旅程を担当する家臣が集まり、卓上には周辺の街道と川を描いた地図が広げられていた。
アルベルトが北へ延びる街道を指した。
「明後日、この道を使って次の領地へ向かう予定だった。途中で川を渡る必要がある」
旅程を担当する家臣が続けた。
「橋ではなく浅瀬を渡る道です。普段なら馬車でも問題ありませんが、昨日の雨で水位が上がっております。明日までに下がる可能性もありますが、安全を確認できておりません」
レオンは地図を見た。
「北の道を使えるか、それとも別の道へ回るべきかを占えばいいんですね」
「そうだ。西へ回れば安全だが、1日ほど余計にかかる。北の川が渡れるのであれば、予定を変える必要はない」
「分かりました」
レオンは北の街道と川を意識した。
間もなく水の流れる音が聞こえ、川の光景が頭の中へ浮かんだ。
普段より川幅が広がり、茶色く濁った水が勢いよく流れている。馬が浅瀬へ入ると足を取られ、その後ろにつながれた馬車の車輪も大きく傾いていた。
次に西へ回る道を意識すると、何台もの馬車が長い街道を進んでいる。距離は延びるものの、大きな事故は見えなかった。
「北の道は使わない方がいいです」
アルベルトが地図へ目を落とした。
「川の水が下がらないのか?」
「明後日でもかなり多いままです。馬だけなら渡れるかもしれませんが、馬車を入れるのは危険です。西へ回った方が安全だと思います」
旅程を担当する家臣が確認した。
「北の浅瀬を安全に渡れるようになるのは、いつごろだ?」
「4日くらい先だと思います。それより早く出るなら、西へ回った方がいいです」
アルベルトはすぐ家臣へ命じた。
「今から騎兵を出して川を確認させろ。上流の様子も分かる範囲で調べさせてくれ」
「承知いたしました」
翌朝、偵察に出た兵が戻った。
北の川はさらに増水していた。上流の山間部でも雨が降ったらしく、浅瀬では荷車の通行を止めているという。
公爵一行は西回りの街道を使うことになった。
その報告を聞いたところで、レオンの視界に文字が現れた。
《占術が的中しました》
《天命が1つ満たされました》
《身体適応が進みます》
《能力【地形把握Ⅰ】を獲得しました》
文字が消れたあと、卓上の地図を見ると、以前より土地の形を想像しやすくなっていた。
丘の高低や川の流れ、街道のつながりを追うだけで、実際の地形が頭の中に立体的に浮かんでくる。戦場で部隊を動かす時だけでなく、旅や護衛にも役立ちそうな能力だった。
公爵一行は翌朝に出発することになり、城内では荷造りや馬車の点検が始まった。
レオンは仕事を終えたあと、管理役から預かった地図を厩舎の担当者へ届けた。
用事を済ませるころには日が傾き、館の裏手にある庭からも人の姿が減っていた。
家へ帰ろうと庭沿いの通路を歩いていると、植え込みの向こうから男女の話し声が聞こえた。
アルベルトとセシリアだった。
そのまま通り過ぎるつもりだったレオンは、次に聞こえた名前で足を止めた。
「沙也香、王都へ戻ったら少しゆっくりしよう。今回の巡察は長すぎた」
アルベルトの声である。
少し間を置いて、セシリアが答えた。
「修一さん、ここではセシリアでしょう。誰かに聞かれたらどうするの」
「今は誰もいない」
「あなたは昔から、そういうところが雑なのよ」
レオンはその場で足を止めた。高瀬修一は前世の夫の名前であり、水野沙也香は、その修一が真理子との結婚中に関係を持っていた女である。どちらも10年間忘れたことのない名前で、聞き間違えるはずがなかった。
10年前、修一は沙也香との関係を続けた末に、真理子へ離婚を求めた。
真理子は何度も考え直してほしいと頼み、それでも夫の意思は変わらなかった。離婚後もしばらくは、なぜ自分では駄目だったのかと考え続けた。
その2人の名前が、異世界の公爵夫妻の口から出ている。
レオンは植え込みの隙間から2人を見た。
アルベルトは30歳ほどの男であり、セシリアも20歳を過ぎたばかりに見える。顔も身体も、前世の修一や沙也香とは違っていた。
しかし、もはや偶然ではなかった。
アルベルトの中にいるのは高瀬修一であり、セシリアの中にいるのは水野沙也香である。
「嘘だろ……」
声にならない程度につぶやいた。
異世界へ来たのは、自分だけではなかった。
前世で自分を捨てた2人も、この世界で別の人間として生きている。
しかも真理子は貧しい士族の16歳の倅になったのに対し、修一は王国有数の公爵、沙也香はその妻だった。
前世でも2人は真理子を捨てたあとに一緒になった。
この世界では最初から夫婦として、誰にも隠れる必要のない暮らしをしている。
胸の奥から、10年前の怒りが戻ってきた。
ただ、当時とは違う。
泣きたいとは思わなかった。修一を呼び止め、なぜ自分を捨てたのかと問い詰める気にもならない。
目の前にいるのは王国有数の公爵夫妻であり、自分はハルベル伯爵家に仕える下級士族の倅にすぎない。
それ以上に、今の自分にはゲオルグとエルザ、リナがいる。
レオンは2人に気付かれないよう、その場を離れた。
◇ ◇ ◇
家へ戻った時には、夕食が始まっていた。
「兄さん、遅いよ」
リナが隣の椅子を指した。
「兄さんの分は残してあるから、早く座って」
「悪い。城で仕事が長引いた」
エルザが温め直した豆と肉の煮込みを皿へ入れてくれた。
数か月前なら考えられなかったほど肉が入り、湯気とともに香ばしい匂いが立っている。
ゲオルグは息子の顔を見た。
「城で何かあったのか?」
「少し驚くことがあっただけだよ」
「公爵閣下に何か言われたのか?」
「そういう話じゃない。仕事はちゃんと終わったよ」
レオンはそれ以上話さず、夕食を食べ始めた。
家族に説明するつもりはなかった。
父も母も、高瀬真理子として生きた48年間を知らない。修一と沙也香が自分にとってどのような相手だったのかを話すには、まず前世から説明しなければならない。
ただ、1つだけはっきりした。
前世で自分を捨てた2人は、この世界では王国でも指折りの公爵夫妻として生きている。
そして2人は、レオンの中に高瀬真理子がいることをまだ知らない。
今すぐ何かをするつもりはなかった。
公爵と士族の倅では、身分が違いすぎる。それに、前世の恨みだけで今の家族を巻き込むような真似はしたくない。
ただし、修一と沙也香がなぜこの世界へ来たのか、公爵夫妻として何をしているのかは知っておきたかった。
レオンは肉の入った煮込みを食べながら、公爵を初めて前世の名で考えた。高瀬修一。10年前に自分を捨てた男は、この世界でも自分よりはるかに高い身分にいる。それでも今のレオンには、かつて夫だった男が以前ほど大きな存在には思えなかった。




