第5話(前編)――「公爵夫妻」
7月上旬、ハルベル伯爵家の城では、グランツ公爵一行を迎える準備が進んでいた。
厩舎には新しい藁と飼料が運び込まれ、城門から館へ続く道も整えられている。普段は荷車や兵が行き交う正門前には木組みの飾り門まで造られ、伯爵家の紋章を染めた布が風に揺れていた。
公爵一行が到着するのは翌日の午後である。レオンは朝から城へ呼ばれ、人夫や大工が忙しく働く正門前で、農地の管理役と顔を合わせた。
「最後に1つ、占ってもらいたいことがある」
「明日の天気ですか?」
「天気ではない。公爵閣下をお迎えする際に、何か問題が起きないか見てほしい。馬が暴れる程度でも、こちらにとっては十分な失態になる」
「何が起きるか分からない状態で占うんですね」
「難しければ、何も見えなかったと言ってくれて構わん。気になるものが見えた時だけ教えてくれ」
「分かりました。やってみます」
レオンは正門の前に立ち、翌日の公爵一行の到着を意識した。
門をくぐる馬車、その両側に並ぶ伯爵家の家臣や兵、風に揺れる旗が頭の中へ浮かんだ。馬車はそのまま館へ向かい、出迎えの者たちも頭を下げている。
その途中で、正門前の景色が急に変わった。
太い木材が斜めに倒れ、人の並んでいる側へ横木が落ちてくる。馬車ではない。数日前に造られた飾り門だった。
右側の支柱が途中で折れ、上部を支えていた横木が倒れ込んでいた。
レオンは目を開け、目の前に立つ飾り門を見上げた。
「この飾り門を調べた方がいいです」
管理役も上を見た。
「何か見えたのか?」
「右側の支柱が折れて、横木が人の方へ倒れます。明日まで、このままにしない方がいいと思います」
「今朝も大工が点検したはずだが、それでも危ないのだな?」
「俺には倒れるところが見えました。調べて何もなければ、それで済みます」
「分かった。すぐ確認させよう」
管理役は近くにいた大工を呼び、レオンが示した支柱を詳しく調べるよう命じた。
表面を見ただけでは異常はなかった。
ところが横木との接合部を外すと、内側の一部が黒く変色していた。木が腐り、表面からは分からないところまで弱くなっている。
大工は腐った部分を刃物で削りながら顔をしかめた。
「雨水が入り込んでいたようです。今日くらいの風なら持つでしょうが、強く吹けば危なかったですよ」
「明日はこの下を大勢の人間と馬車が通る」
管理役は外された支柱を確かめてから、レオンへ顔を向けた。
「先に見つかって助かった」
その言葉を聞いたところで、視界に文字が現れた。
《占術が的中しました》
《天命が1つ満たされました》
《身体適応が進みます》
《能力【危険察知Ⅰ】を獲得しました》
文字が消れると、周囲の見え方が少し変わった。
大工が肩に担いでいる材木の先、人夫の足元に転がる石、近くを通る馬の耳や脚の動きに、以前より早く目が向く。危険な未来そのものが見えるわけではないが、事故につながりそうなものを自然に拾えるようになっていた。
「これなら戦う時にも使えそうだな」
レオンがつぶやくと、管理役が振り返った。
「何か言ったか?」
「いえ。こちらの話です」
◇ ◇ ◇
翌日の午後、正門前にはハルベル伯爵家の家臣や兵が並んだ。
レオンもゲオルグとともに列へ加わり、公爵一行の到着を待っていた。
やがて城下から馬蹄の音が聞こえ始め、先頭を走る騎兵が正門へ姿を現した。
その後ろから何台もの馬車が続く。
グランツ公爵一行は、レオンが想像していた以上の人数だった。騎兵が前後を固め、その間に公爵夫妻や家臣を乗せた馬車が進み、さらに従者と荷車が続いている。
伯爵家が厩舎や干し草の確保に追われた理由も、実際に見ればよく分かった。
先頭の馬車が館の前で止まった。
最初に降りてきたのは、30歳前後に見える男だった。濃い茶色の髪を整え、仕立てのよい濃紺の上着を身に着けている。大柄ではないが姿勢がよく、周囲の人間が一斉に頭を下げることにも慣れている。
アルベルト・フォン・グランツ公爵である。
ハルベル伯爵が自ら前へ進み、礼をした。
「遠路ようこそお越しくださいました」
「世話になる、ハルベル伯爵」
レオンも父から教えられた通りに頭を下げた。
その時、公爵の声が耳に入り、胸の奥に引っ掛かるものを感じた。
聞き覚えのある声ではない。顔にも見覚えはない。
それでも、言葉を区切る間や相手を見る時の表情に、どこか覚えがあった。
続いて馬車から若い女が降りてきた。
20歳を少し過ぎたほどに見える。淡い金髪をまとめ、深い緑色の衣装を身に着けていた。
ハルベル伯爵夫人が迎えると、女は笑顔で礼を返した。
「お招きいただき、ありがとうございます」
セシリア・フォン・グランツ公爵夫人である。
レオンは夫人の顔にも覚えはなかった。
ところがセシリアが笑いながらわずかに首を傾けた瞬間、前世の記憶の奥から嫌な感覚が浮かび上がった。
誰だったのかまでは思い出せない。
ただ、その仕草を以前にも見たことがあるような気がした。
「レオン」
隣のゲオルグが声を掛けてきた。
「どうした?」
「いや、何でもない」
「公爵閣下と御夫人をじろじろ見るな」
「そんなに見てないよ」
「見ていたから言っている」
レオンは視線を下げた。
公爵夫妻はハルベル伯爵夫妻とともに館へ入り、やがて姿が見えなくなった。
それでも先ほど感じたものは消えなかった。
レオンには、あの2人と会った記憶などない。
そのはずなのに、まったく知らない相手を初めて見た時とは違う感覚が残っていた。




