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埃まみれの石板と、地球放棄論


 極東支部長からの厳命により、ジャックがArtifact-02(帝国世界)の前線指揮を外され、孤島(Artifact-1453)へ帰還してから、およそ一ヶ月が経過していた。


 孤島のジャングルを切り開いて作られた、調査班のプレハブ式仮設ラボ。


 そこは「研究室」というより、控えめに言っても「ゴミ捨て場」だった。壁際には泥のついた石板や、用途不明の金属製の発掘品が山積みにされ、長机の上にはドローンのバッテリー、解読途中の羊皮紙、飲みかけのコーヒーカップ、そしてカップ麺の空き容器が地層のように重なっている。


 空調は一応効いているものの、熱帯特有の湿気と、古い紙や土の匂いが混ざり合い、独特の饐えた空気が充満していた。


「……おいハル。俺は『調査助手』を命じられたんであって、清掃業者になった覚えはないんだが」


 ジャックは鼻まで防塵マスクを引き上げ、埃まみれの石板を木箱に詰め込みながら咳き込んだ。


「文句を言わないでくれよ、ジャック。君が前線でドンパチやっている間、僕ら調査班はこの神殿遺跡の解析と、ドローンが持ち帰った各ゲートの環境データ処理で手一杯だったんだ。片付けに回す人員なんていなかった」


 ハル・フォスターは悪びれる様子もなく、机の端で複数のモニターとタブレット端末を交互に睨みながら答えた。


「それに、その石板は三年前に僕らがこの孤島で初めて掘り出した記念すべき第一号だ。丁寧に扱ってくれよ」


「ああ、覚えてるさ。あんたが解読に夢中になるあまり、遺跡の落とし穴のトラップを踏み抜いて、俺が泥水の中から引きずり上げてやった時のやつだろ。あの時あんたが抱きしめてたせいで、俺の戦闘服まで泥だらけになったんだ」


「……あの時は本当に助かった。君がいなかったら、僕は今頃、地下水脈の底で化石になっていたよ」


 ハルは苦笑し、手元の端末から目を離して、すっかり冷めきったコーヒーを一口すすった。


「で、そっちの解析はどうなんだ。第8の門(月へのゲート)のロックを解除する手立ては見つかったのか?」


「さっぱりだ。セレンの生体コードが『鍵』であることは間違いないんだが、システムが完全に切り離されている。物理的に破壊しようとすれば神殿の構造そのものが崩壊するフェイルセーフが組み込まれているし、今のところはお手上げだね」


 ハルは疲れたように肩をすくめ、モニターの一つを指差した。


「それよりも、今の極東支部の最優先課題はArtifact-02(帝国世界)の開拓だ。この一ヶ月で、あっちのFOB(前線基地)はすっかり『植民地コロニー』になったらしいじゃないか」


 ジャックは石板を詰めた重い木箱を部屋の隅に押しやり、防塵マスクを外して深く息を吐いた。


「……ああ。孤島の備蓄が底を突きかけてるからな。難民の移送が待ったなしで進んでる」


 ジャックの左遷後、帝国世界(Artifact02)のFOBは、瞬く間にその規模を拡大していた。ジャックたちが確保した水源を中心に安全圏が広がり、孤島に溢れ返っていた難民や非戦闘員が、次々とゲートの向こう側へと移住を開始しているのだ。


 報告によれば、平原にはすでにプレハブの仮設住宅が立ち並び、ダークエルフたちの指導のもと、農地の開墾すら始まっているという。


「だが、帝国の動きが不気味だ」


 ジャックは腕を組み、険しい顔つきになった。


「ギルたちからの偵察報告によれば、帝都で大規模な討伐軍の編成が始まっているらしい。銀甲冑の騎士団、重装歩兵、それに投石機のような攻城兵器まで持ち出してくるそうだ。数万規模の軍勢が、あと二、三ヶ月もすればFOBに到達するだろう」


「それに対して、こちらの防衛戦力は?」


「最悪だ」


 ジャックは吐き捨てるように言った。


「各国の崩壊した正規軍——旧大陸連邦の海兵隊の生き残りや、極東防衛軍の残党、それに金で雇われた傭兵崩れなんかをかき集めて、財団の警備部と混成部隊を作っている。指揮系統はバラバラ、戦術ドクトリンも違うし、言語の壁もある。完全な烏合の衆だ」


「なぜ財団の精鋭をもっと送らない? 大西洋本部に増援を要請すればいいじゃないか」


地球こっちが安全じゃないからさ」


 ジャックはラボの窓から、外のジャングル、そしてその向こうに広がる海を指差した。


「植民が本格化したことで、民間人の間にも『門』の存在が広く知れ渡っちまった。安全で、水も食料もある新天地の噂は、パンデミックで狂った世界じゃ最高の劇薬だ。ゾンビの群れだけじゃない。海賊化した他国の艦隊や、武装した略奪者の集団が、この孤島(Artifact-1453)を狙って集まり始めている。……このゲートを守るためには、地球側にもかなりの戦力を残さざるを得ないんだよ」


 ハルは沈痛な面持ちで頷いた。


「なるほど。限られた戦力を、地球と異世界で二分しなければならないわけか。……となると、向こうの防衛は、どうしても現地住民の力を借りざるを得ないな」


「ああ。ギルたちダークエルフの若者も、財団の指揮下で戦列に加わることになっている。あの猟兵(スナイパー)の素質があるアリアも、例外じゃないだろうな」


 ジャックは、初めて銃を撃った時のアリアの無邪気な笑顔を思い出し、奥歯を強く噛み締めた。


 子供が嬉々として引き金を引くような世界にはしたくないと願った。そのために同盟を結んだはずだった。


 だが、現実は無情だ。圧倒的な数で押し寄せる帝国軍を前にすれば、彼女の才能を「戦力」として利用しないという選択肢は、財団にはない。


「……最近は、嫌な噂も耳にする」


 ハルが声を潜め、周囲を気にするようにして言った。


「難民や、旧軍の軍人たちの一部で、過激な思想が台頭し始めているらしい。『地球を見捨てて、門を閉じるべきだ』と」


「地球放棄論、か」


「ああ。ゾンビと略奪者に溢れた地球を守るために血を流すより、全員でArtifact-02へ移住し、ゲートを物理的に破壊して帝国を乗っ取った方が、人類は安全に再起できる……そう本気で信じている連中がいる。残党とはいえ、現代兵器を持つ自分たちの方が、中世レベルの帝国より圧倒的に強いと思い込んでいるんだ」


「浅はかな連中だ」


 ジャックは冷たく吐き捨てた。


「門を閉じれば、大西洋本部との繋がりも、高度な医療物資や弾薬の補給も完全に断たれる。弾が尽きれば、俺たちはただの異邦人だ。それに、帝国を中世の土人だと舐めてかかれば、いつか必ず痛い目を見る。歴史も文化も違う数千万の人間を、数千人の難民が武力だけで支配し続けられるわけがない」


 その時、ラボの薄汚れたドアが、音もなくゆっくりと開いた。


 ひょっこりと顔を出したのは、銀色に近い淡い青髪を揺らす少女——セレンだった。


 彼女はジャックの姿を認めると、トテトテと足音を立てずに小走りで近づき、ジャックの隣に置かれた丸椅子にちょこんと座った。そして、作業着のポケットから取り出したイチゴ味のキャンディを一つ、無言でジャックに差し出す。


「……お、サンキュー。食堂の調理班からもらったのか?」


 ジャックがキャンディを受け取って頭を撫でてやると、セレンは満足そうに目を細め、自分もキャンディの包み紙を不器用な手つきで剥いて口に放り込んだ。


 彼女は最近、こうしてジャックの作業場にふらりと現れては、ただ隣で時間を過ごすことが増えていた。言葉は交わさないし、何か手伝ってくれるわけでもない。だが、彼女なりの親愛の情であり、ジャックがここにいることを確かめるような仕草だった。


「すっかり懐かれているね、ジャック。君が前線に復帰したら、あの子、寂しがるんじゃないか?」


 ハルが微笑ましく見つめる。


「俺だって、いつまでも清掃業者をやってるつもりはないさ。クロエやアリアたちを、あの烏合の衆と一緒に死なせるわけにはいかないからな」


 ジャックはキャンディを口の中で転がしながら、立ち上がって軽く伸びをした。


「来月、大西洋本部との暗号通信回線が繋がるんだろう? ボスが手配してくれたって聞いたよ」


 ハルの言葉に、ジャックは動きを止め、小さく頷いた。


「ああ。アリシアと、オンラインで面会できる」


 アリシア。大西洋本部の無菌室に捕らわれている、たった一人の妹。


 ジャックが財団の理不尽な命令に従い、血に塗れた前線に立ち続ける唯一の理由。


「Artifact-02に戻る前に、妹さんの顔が見られるらしいな。よかったじゃないか」


「……そうだな」


 ジャックは、口の中のキャンディの甘さを噛み締めながら、窓の外に広がる青い空を見上げた。


 妹の安全を守るため、そしてアリアたち異世界の仲間を死なせないため。


 ウーティス・“ジャック”・ヴァンスが再び銃を手に取り、血塗られた前線へと戻る日は、もう目前に迫っていた。

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