紫煙とプリンアラモード、あるいは老兵の独白
太平洋の絶海に浮かぶ孤島——Artifact-1453。
その入り江に停泊する極東支部の移動拠点、全長三百メートルを超える巨大ヘリ空母の最深部。そこには、極東支部長ヴィクター・ヴァンスの専用私室が設けられている。
分厚い防弾ガラスの向こうには、夜の闇に沈む熱帯のジャングルと、その奥で青白い光を放つ巨大な神殿の輪郭が微かに見えていた。波が船体の鋼鉄を叩く重い音が、微かな振動となって足の裏に伝わってくる。
室内には、ヴィクターが好んで吸うキューバ産葉巻の、甘く重い紫煙が漂っていた。パンデミックによって世界中の物流が完全に停止した今、この葉巻のストックが尽きれば、彼が嗜好品を口にすることは二度とないだろう。
ヴィクターは革張りのソファに深く腰を沈め、手元のタブレット端末からゆっくりと目を上げた。
ローテーブルを挟んだ向かい側のソファには、銀色に近い淡い青髪の少女——セレンが座っている。彼女の小さな両手には銀色のスプーンが両手でしっかりと握られており、その視線は、テーブルの上に置かれたガラスの器に釘付けになっていた。
器に盛られているのは、食堂の調理班に特別に作らせた「プリンアラモード」だった。
濃厚なカスタードプリンの周囲を、純白の生クリームと、缶詰のチェリーや桃、そして色鮮やかなゼリーが王冠のように彩っている。世界が崩壊し、保存食とレーションばかりが配給される極東支部において、備蓄している甘味料をふんだんに使った贅沢品の極みとも言える代物だ。
セレンはスプーンの先でプリンの端を小さくすくい、おずおずと、まるで爆発物でも確かめるかのように口に運んだ。
その瞬間、彼女の淡い青色の瞳が、驚きに大きく見開かれた。
中東の地下施設で回収された当初の、あの冷たく無機質だった表情が僅かに緩む。舌の上で溶ける圧倒的な甘味と、卵とミルクの濃厚な風味が、彼女の味覚神経に未知の衝撃を与えたのだろう。まるで春の陽射しを浴びて氷が溶けるように、微かな、しかし確かな幸福感がその顔に広がった。
彼女はすぐさま二口目、三口目と、今度は躊躇うことなく、無言のままハイペースでプリンを口に運び始めた。スプーンとガラスの器が触れ合うカチャカチャという音だけが、静かな室内に響き続ける。
「……ゆっくり食え。誰も取らん」
ヴィクターは葉巻の灰をクリスタル製の灰皿に落とし、呆れたように低く笑った。
Artifact-1865-b。財団の本部——大西洋拠点に居座るパトロン会議の連中が「鍵」と呼び、冷徹に管理・利用することだけを求めている未知の知的生命体。
回収された当初、彼女は一切の固形物を拒絶し、まるで機能停止した機械のようにベッドに座り続けていた。それが今や、甘いお菓子に夢中になるただの腹を空かせた子供のようになっている。
(ウーティスが『セレン』と名付けてからだ。あいつが名前という概念を与え、ゼリーを食わせたあの日から、この少女は急速に『人間』の真似事を始めている)
ヴィクターは煙を細く吐き出しながら、目を細めた。
ウーティス・ヴァンス。極東支部の部下たちからは「ジャック」というコードネームで呼ばれている、生意気で情に厚すぎる警備班長。
彼がArtifact-02(帝国世界)の現地住民であるダークエルフの少女に、財団の制式装備である銃を触らせたという報告を受けた時、ヴィクターは立場上、厳罰を下さざるを得なかった。パトロン会議の目を誤魔化し、彼を本部の粛清から守るためにも、前線から外し、この孤島へ一時的に左遷する必要があったのだ。
(ヴァンス家は、財団の歴史と共に歩んできた家系だ。本部の連中とは、見ている景色も、流してきた血の量も違う)
ヴィクターの脳裏に、幼い頃に厳格な父から叩き込まれた一族の歴史が蘇る。
西暦1453年。コンスタンティノープルがオスマン帝国の軍勢によって陥落し、千年の歴史を持つビザンツ帝国が滅亡した日。 燃え盛る帝都から、帝国の叡智と、当時すでに「異常」と認識されていた数々の「遺物」を抱えて船で逃げ延びた『コンスタンティノープルの守書人』たち。その中の一人が、ヴァンス家の始祖だった。
以来、ヴァンス家は代々、財団の「現場の番犬」として血を流してきた。パトロン会議の貴族や新興資本家たちが安全な大西洋の拠点で算盤を弾き、利益と権力を貪る中、ヴァンスの人間は常に最前線に立ち、異常存在と対峙し、時には非情な決断を下してきた。
ヴィクター自身もそうだった。
彼が極東支部長の座に就く前——1989年の、「あの極秘任務」。
表向きの米ソ宇宙開発競争の裏側で、財団が独自の技術を用いて行った月面探査。そこで若き日のヴィクターが見たものは、人類の歴史を根本から覆す狂気と、絶望的な犠牲だった。
音のない真空の世界。月の極地に隠された、地球のどんな文明にも属さない巨大な遺跡構造物。幾何学的な文様が青白く発光する回廊。そして、そこで眠っていた「厄災」の種。
探査の最中、未知の防衛機構が作動し、多くの部下が彼を庇って真空の海に散っていった。無線越しに聞こえる部下たちの断末魔の悲鳴と、宇宙服が裂ける音。ヴィクターは自らの魂の半分をあの冷たい灰色の砂の上に置いてきた。
そして、あの過酷な任務の果てに発見されたのが、目の前でプリンを頬張っているこの少女の「起源」とも言える存在だったのだ。
詳細はまだ誰にも語れない。
語れば、ウーティスやクロエたち極東支部の若者たちを、財団の最も深く、最も黒い闇に引きずり込むことになる。パトロン会議がパンデミックの解決策としてこの少女を欲している理由も、あの月の遺跡に直結しているのだから。
(だからこそ、私はあいつらを引き取ったのかもしれんな。血生臭いヴァンスの歴史に、部外者を巻き込むべきではなかったと、今でも後悔することがある)
ヴィクターは、グラスに注いだ琥珀色のバーボンを静かに煽った。アルコールの熱が、古い記憶の痛みを少しだけ麻痺させてくれる。
十数年前。財団が関与した、ある異常な作戦領域。
そこは地図にも載っておらず、戸籍を持つ住民など存在しないはずの場所だった。作戦の激しい戦闘の巻き添えで、周囲は火の海と化していた。
その燃え盛る瓦礫の中で、ヴィクターは「彼ら」を見つけた。
幼い少女を背中に庇うようにして立ち塞がり、ヴィクターたち武装した財団の大人を、鋭い獣のような目で睨みつけていた少年。その手には、どこで拾ったのか、弾の入っていない壊れた拳銃が握られていた。
彼らはどこから来たのか。親は誰なのか。財団のデータベースにも、現地の記録にも、一切の痕跡がない、完全に「出自不明」の子供たちだった。
財団の規定に従えば、異常な領域で発見された身元不明者は、目撃者として「処理」するか、検体として研究施設に送られるのが定めだ。
だが、ヴィクターはどうしても、その少年に向けて引き金を引くことができなかった。あの時、少年の瞳の奥に燃えるような生への執着と、かつて月面で部下を失った時の自分自身の絶望を見たからかもしれない。
彼は財団の規定を曲げ、二人を自分の養子として引き取った。
管理部のデータベースを偽造し、「ヴァンス」という姓を与え、少年に「ウーティス」、妹に「アリシア」と名付けた。
子育てなどしたことのない、血の匂いと硝煙しか知らない老兵にとって、それは苦労の連続だった。
ウーティスは反抗期が酷く、ヴィクターの与えた名前を嫌い、勝手に「ジャック」というありふれた名を名乗るようになった。財団の過酷な軍事訓練にも反発ばかりしていたが、病弱な妹のアリシアを守るための「力」を渇望し、やがて誰よりも優秀な兵士へと成長した。
一方で、ウーティスは「ヴァンス家の血」を引いていないからこそ、財団の冷徹な論理に染まりきらなかった。
施設に迷い込んだ野良犬を拾って隠れて飼い、名もなきアーティファクトに名前をつけ、見知らぬ異世界の住民のために己の裁量で銃を渡す。
それは冷酷な判断を求められる兵士としては致命的な欠陥だが、ヴィクターにとっては、誇らしくもある「人間らしさ」だった。
「……ウーティスの奴、孤島で大人しくハルの手伝いをやっているだろうか」
ヴィクターはポツリと呟き、窓の外の神殿を見やった。
罰として調査班の肉体労働を命じたが、あの男のことだ。遺跡の謎解きや発掘作業に飽きて、ハルと口論でもしているかもしれない。
「まあいい。せっかく前線を離れて孤島に帰っているんだ。大西洋本部にいるアリシアと、オンラインで面会させてやらねばな」
パンデミックの混乱の中、アリシアはパトロン会議のお膝元である大西洋拠点の医療施設で保護されている。いや、保護というのは建前であり、実質的には極東支部をコントロールするための「人質」だ。ウーティスが極東支部で命を懸けて戦う最大の理由は、妹の安全な居場所と治療環境を守ることなのだ。
本部との暗号化された通信回線を開き、面会の許可を取るのは骨が折れるが、兄貴の顔を見れば、アリシアも少しは安心するだろう。
カチャリ、と微かな音がした。
ヴィクターが思考の海から視線を戻すと、セレンがプリンアラモードの器を完全に空にしていた。
生クリームの一滴、カラメルソースのひと筋すら残さず、スプーンで綺麗に掬い取っている。ガラスの器は、洗った直後のようにピカピカになっていた。
彼女は空になった器とヴィクターの顔を交互に見比べ、そして、スプーンを軽く振って「もっと」と要求するような仕草を見せた。その瞳は、先ほどまでの無機質なそれではなく、明確な「欲求」に満ちている。
「……お前、当初の『何も食べない』というあの頑なな態度は何だったんだ」
ヴィクターは思わず苦笑し、手で額を押さえた。
パトロン会議の冷徹な老人たちがこの光景を見たら、卒倒するだろう。人類の運命を握るかもしれない未知のアーティファクト、月面遺跡の鍵となる存在が、プリンのおかわりを無言で要求しているのだから。
「仕方ない。調理班にもう一つ作らせてこよう。……ウーティスに甘いと説教しておきながら、私も大して変わらんな」
ヴィクターは重い腰を上げ、部屋のインターホンへと手を伸ばした。
世界が崩壊し、異世界との戦争が始まろうとしている今。
この紫煙と甘いお菓子の匂いに満ちた、奇妙で穏やかな時間は、老兵にとって何よりの救いだった。




