森の狙撃手と、初めての引き金
ダークエルフの族長との同盟が成立した翌日。
ジャック率いる財団の部隊は、戦士長ギルやアリアを含む数名のダークエルフの案内を受け、目的の河川へと向かっていた。
編成は昨日と同じく、ジャック、クロエを含む警備班四名と、ハルを筆頭とする調査班三名。彼らの背中には、水質検査キットや測量機材が詰め込まれた重いバックパックが背負われている。
平原を抜け、森の奥深くへと進むにつれ、周囲の景色は地球の常識からかけ離れていった。
頭上を覆うのは、樹齢数百年はあろうかという巨大な広葉樹の天蓋。足元にはシダに似た植物が密生し、倒木や岩の表面には、淡い青や緑に自己発光する奇妙な苔がびっしりと張り付いている。
ドローンの航空写真だけでは決して見つけられない、獣道とも呼べないような僅かな隙間を、ダークエルフたちは足音一つ立てずに進んでいく。彼らの緑と茶色の革鎧は、この森の景色に完璧に溶け込んでいた。
「(この森は、我ら一族の揺り籠であり、同時に墓場でもある)」
先頭を歩いていたギルが、蔓草をナイフで切り払いながら、ハルに向かって静かに語りかけた。
「(恵みは多いが、危険も多い。音を立てず、我々の足跡を正確にトレースして歩いてくれ。……一歩間違えれば、底なしの泥沼や、毒を持つ茨の群生地に足を踏み入れることになる)」
「(理解した。忠告に感謝する、ギル)」
ハルが古代ラテン語をベースにしたカタコトの言葉で返し、ジャックにハンドサインで後続への注意を促す。
ジャックはP90を構えたまま、周囲の木々に鋭い視線を走らせていた。
「見事な身のこなしだ。足音はおろか、草を掻き分ける音すら最小限に抑えている」
ジャックが感心したように呟くと、隣を歩くクロエも頷いた。
「ええ。地球の特殊部隊でも、ここまでのステルス行軍は難しいわ。それに、あの子……アリアの動きを見て」
クロエの視線の先で、アリアは部隊の最後尾に近い位置を、まるで重力がないかのように軽やかに歩いていた。彼女の大きな尖った耳は、常に前後左右にピクピクと動き、森の微細な音を拾い続けている。手には粗末な木製のクロスボウが握られていたが、その構えには一切の無駄がなかった。
「(この先、少し開けた場所に出る。だが、気をつけてくれ)」
不意に、ギルが足を止めて振り返った。彼の表情には、これまで以上の強い警戒感が浮かんでいる。
「(この森には『鎧猪』と呼ばれる獰猛な獣がいる。縄張り意識が強く、一度怒り狂えば、帝国の重装歩兵でも槍衾を組まなければ狩れない厄介な相手だ)」
「(了解した。ジャック、前方に大型の野生動物がいる可能性があるそうだ。極めて危険らしい)」
ハルの通訳を受け、ジャックは即座に部隊全体に「警戒」のハンドサインを出した。隊員たちが一斉に銃の安全装置を外し、セクター(担当索敵範囲)を分担する。
木々が途切れ、少し開けた草地に出た瞬間だった。
「ブゴォォォォッ!!」
草地の奥、鬱蒼と茂る茂みの中から、空気を震わせるような獣の咆哮が響き渡った。
直後、岩石のような巨塊が猛スピードで突進してきた。
体長は優に二メートルを超え、体重は一トン近いだろう。頭部から背中にかけて、金属のように硬く発達した外殻(鱗甲)に覆われている。二本の巨大な牙が、ブルドーザーのように地面の土を抉り上げながら真っ直ぐに迫ってくる。
ギルの言っていた『鎧猪』だ。
「散開しろ!」
ジャックが怒号を上げ、P90を構える。だが、射線上に地形の測量を行っていたハルが立ち尽くしていたため、引き金を引けない。
「ハル、伏せろッ!」
クロエが叫ぶが、ハルは恐怖で足が竦み、動けなくなっていた。
鎧猪がハルに向かって突進し、その巨大な牙が彼の身体を跳ね飛ばそうとした、その時。
シュッ、という鋭く、しかし極めて静かな風切り音が響いた。
鎧猪の右目——硬い外殻に覆われていない、僅か数センチの隙間に、黒い矢羽のクロスボウの矢が深々と突き刺さった。
「ブギィィィッ!?」
激痛に狂乱した鎧猪は軌道を逸らし、ハルの横をすれすれで通り抜けて、背後の太い大樹に激突した。ドスンという鈍い音と共に、大樹が揺れ、木の葉が雨のように降り注ぐ。
脳を揺らされた鎧猪が、体勢を立て直そうと首を振った瞬間。
シュッ、という二発目の音が響いた。
放たれた矢は、鎧猪の首筋——頭部と胴体の外殻が交わる、ほんの僅かな継ぎ目を正確に射抜いた。矢尻が頸動脈と神経束を完全に切断する。
巨獣はビクンと一度大きく痙攣し、そのままドサリと地面に崩れ落ちた。
静まり返った森の中で、ジャックはゆっくりと振り返った。
矢を放ったのは、部隊の最後尾にいたアリアだった。
彼女はすでに三本目の矢をつがえ、いつでも放てる態勢のまま、倒れた鎧猪の様子をじっと観察している。完全に息絶えたことを確認すると、彼女はふうっと小さく息を吐き、クロスボウを下ろした。
「……すげえな」
ジャックは心底からの感嘆の声を漏らした。
突進してくる標的の、しかも数センチしかない急所を、あんな粗末なクロスボウで連続して射抜く。地球の最新鋭のスナイパーライフルと光学スコープを使っても容易ではない神業だ。
「(見事な腕前だ、アリア。君に命を救われた)」
ハルが腰を抜かしたまま古代ラテン語で礼を言うと、アリアは少し照れくさそうに長い耳を揺らした。
「(これくらい、普通だよ。兄さんなら、あの距離からでも眉間を一発で撃ち抜けるもの)」
アリアが誇らしげにギルを見ると、ギルは短く頷き、倒れた鎧猪の解体を仲間に指示した。
「(これで邑の皆に、久しぶりに腹一杯の肉を食わせてやれる)」
ギルの顔にも、戦士としての緊張が解けた微かな笑みが浮かんでいた。
* * *
一行は再び歩き出し、やがて目的の河川へと辿り着いた。
川幅は十メートルほど。透明度の高い豊かな水流が、午後の太陽の光を反射してきらきらと輝いている。川底の石までくっきりと見えるほど澄んだ水だ。
「素晴らしい。水質は極めて良好だ。簡単な濾過と煮沸だけで、十分な飲料水になる」
ハルが水質検査のキットを覗き込みながら、興奮気味に報告する。
「よし。クロエ、周辺の警戒を怠るな。俺はFOBに連絡を入れる」
ジャックが川岸の岩に腰を下ろし、背負った長距離無線機のセットアップを終えた後、ふと視線を感じて顔を上げた。
アリアが数メートル離れた場所から、ジャックの手元をじっと見つめていた。
いや、正確にはジャック自身ではなく、彼が膝の上に置いている黒い銃器——P90に釘付けになっているのだ。昨日、帝国兵の分厚い鎧を紙くずのように貫き、平原を血に染めた「雷の魔法の杖」。
彼女の瞳には、恐れと、それ以上の強烈な好奇心が入り混じっていた。
「……なんだ? 触ってみたいのか?」
ジャックが銃を軽く持ち上げて見せると、アリアはビクッと肩を揺らし、後ずさった。
「(い、いいの……? でも、それは異邦人の『強力な魔法の杖』なんでしょ? 私みたいな者が触ったら、呪われるんじゃ……)」
ハルが苦笑しながら通訳する。
「魔法じゃない。ただの道具(機械)だ。呪われやしないさ」
ジャックはマガジンを抜き、薬室に弾が残っていないことを確認してから、P90のストック(銃床)をアリアに向けて差し出した。
「ちょっと、ジャック! 何考えてるの!?」
少し離れた場所で警戒に当たっていたクロエが、血相を変えて駆け寄ってきた。
「本部の通達を忘れたの?『彼らに過度な保護を与え、我々の技術(銃火器)を盗まれるような真似だけは避けるように』って、ボスからキツく言われたばかりじゃない!」
「ただ触らせるだけだ。構造を見せたところで、この世界の技術じゃ火薬も弾丸一つ作れやしないさ。それに、同盟相手を最初から疑ってかかるような態度は、いつか足元をすくわれる原因になる」
ジャックはクロエの制止を意に介さず、アリアに手招きした。
アリアはおずおずと近づき、震える手でP90を受け取った。
「(……重い。それに、すごく冷たい……)」
彼女は不思議そうにポリマー製の銃体を撫でた。木や鉄、あるいは動物の骨とは全く違う、未知の素材の滑らかな感触。
「構えてみろ。肩にストックを当てて、右手でグリップを握るんだ」
ジャックが身振り手振りで教えると、アリアは見よう見まねで銃を構えた。
その瞬間、ジャックの目が僅かに見開かれた。
初めて銃を持ったとは思えないほど、彼女のフォームは自然で、無駄な力が入っていなかった。クロスボウで鍛えられた体幹と、獲物を狙う狩人の鋭い視線が、銃のドットサイト(光学照準器)の奥でピタリと合わさっている。銃口に一切のブレがない。
「……信じられないわ。まるで、最初から狙撃手として訓練されてきたみたい」
クロエもまた、驚きを隠せない様子で呟いた。
「なあ、アリア。ちょっと撃ってみるか?」
ジャックの提案に、クロエが再び「本気!?」と声を上げるが、ジャックはすでに予備のマガジンを取り出していた。
「実弾を一発だけ込める。川の向こう岸にある、あの赤い花を狙ってみろ。距離は約四十メートルだ」
ジャックは銃を受け取り、マガジンを装填してコッキングレバーを引いた。安全装置を単発に切り替え、再びアリアに渡す。
「ここ(引き金)を引けば、魔法が出る。反動があるから、しっかり肩に押し当てろ」
アリアは緊張で息を呑みながら、P90を構え直した。
彼女の長い耳がピタリと動き、風の音と川のせせらぎを捉える。
そして、躊躇いなく引き金を引いた。
ターンッ!
乾いた銃声が響き、アリアの華奢な体が反動で僅かに後ろへ仰け反った。
だが、銃口はブレなかった。
川の向こう岸。ジャックが指定した赤い花が、見事に茎から撃ち抜かれ、水面へと散っていた。
「(……当たった。私、魔法を使えた!)」
アリアは銃を抱えたまま、歓喜の声を上げて跳び跳ねた。ギルや他のダークエルフたちも、驚愕と称賛の入り混じった声を上げている。
「お見事だ。素質があるなんてもんじゃないな」
ジャックは苦笑しながら、アリアから銃を受け取った。
「(異邦人の長よ、感謝する! この力があれば、私も兄さんと一緒に、もっとたくさんの帝国兵を倒せるかもしれない!)」
アリアの無邪気な言葉をハルが通訳した瞬間、ジャックの手が僅かに止まった。
アリアの瞳は純粋な希望に輝いている。彼女にとって、この銃は一族を苦しめる帝国から解放されるための「魔法の杖」なのだ。
だが、ジャックはその「魔法」がもたらす現実を知っている。引き金を引くことの容易さと、それが奪う命の重さを。
「……アリア」
ジャックは銃の安全装置をかけ、しゃがみ込んで少女と視線を合わせた。
「(あんたの腕は素晴らしい。俺たちの部隊でもトップクラスになれる。……でもな、これはクロスボウとは違う。引き金を引くのが簡単すぎるんだ)」
ハルが、ジャックの静かなトーンをそのまま翻訳する。
「(簡単すぎる……?)」
「(ああ。指先一つ動かすだけで、相手がどれだけ強い鎧を着ていようと、どれだけ生きたいと願っていようと、一瞬で命を奪っちまう。……強すぎる力は、使う人間の心を麻痺させるんだ)」
ジャックはP90の冷たい銃身を軽く叩いた。
「(これはただの『人殺しの道具』だ。俺たちは生き残るためにこれを使うが、あんたみたいな若い子が、嬉々としてこれに頼るような世界にはしたくない。……俺たちが同盟を結んだのは、あんたたちにこの引き金を引かせないためでもあるんだ)」
ジャックの言葉を聞いたアリアは、少し戸惑ったように長い耳を伏せ、やがて真剣な顔で頷いた。
「(……わかった。異邦人の長がそう言うなら、私はもう、この魔法には触らない)」
「ジャックでいい。……それに、触るなとは言ってないさ。いつか、誰も殺さなくていい平和な的当てゲームができる日が来たら、その時はたっぷり撃たせてやるよ」
ジャックがニッと笑うと、アリアの顔にもようやく安堵の笑みが戻った。
「あなたって、本当に不思議な人ね」
一部始終を見ていたクロエが、呆れたような、それでいて感心したような声で言った。
「本部の命令を無視して銃を触らせたと思ったら、今度は道徳の授業? 財団の警備班長が聞いて呆れるわ」
「現場の裁量ってやつさ。それに、あの子の目を見たら、少しだけ……妹を思い出しちまってな」
ジャックは肩をすくめ、立ち上がった。
「水質検査は終わったか、ハル。FOBに帰るぞ。水が確保できたと報告すれば、ボスも少しは機嫌を直すだろう」
地球の「技術」と、異世界の「才能」が交差した瞬間。
ジャックはアリアを戦いから遠ざけようとしたが、彼らの結んだ同盟が、やがて少女を戦火の渦中へと巻き込んでいくことを、この時のジャックはまだ知る由もなかった。




