EP 7
北辰一刀流 VS 顎砕き、そして甘い奇跡
——バチチッ!!!
キャルルの特注靴に仕込まれた雷竜石が、空気を帯電させるほどの紫電を放つ。闘気を極限まで圧縮した膝蹴り——月影流『顎砕き』が、信長の顎を粉砕せんと、下から突き上がった。
(……ここまで、か)
死を覚悟した信長の視界が、スローモーションになる。
父・真一の顔、練馬の隊員たちの顔、そして最後に、ヘリに乗る直前にチョコレートを渡してきた蘭の、気怠げな笑顔が脳裏をよぎった。
その時だ。
激しい動きに耐えきれず、信長のコンバットシャツの胸ポケットから、蘭に押し付けられた『高級ベルギーチョコ』の小箱が飛び出した。
小箱は空中で不格好に回転し、キャルルの放つ凄まじい闘気の風圧に煽られ、その拍子に蓋が開いた。
中から飛び出したのは、カカオ80%のビターチョコレート。
その一粒が、キャルルの音速の膝蹴りの軌道上、まさに彼女の鼻先数センチの空間をふわりと掠めたのである。
——スゥッ!!!
信長の顎まで残り数ミリ。
キャルルの強靭な膝が、ピタリと停止した。
「……え?」
信長は、目の前で止まったキャルルの太ももを見つめ、間の抜けた声を上げた。
キャルルの全身から立ち昇っていた、あれほど苛烈だった殺意と闘気が、霧散するように一瞬で消え失せている。
キャルルは、信長の顎の真下で膝を止めたまま、空中に漂う**『ある匂い』**に、長いウサ耳をピコピコと激しく動かした。
それは、カカオの濃厚な香りと、バター、そして砂糖が織りなす、このアナステシア世界には存在しない、極上の甘く、芳醇な香り——現代地球の文明が凝縮された、チョコレートの匂いだった。
「……あ、甘い。……すごく、甘くて、美味しそうな匂い」
キャルルは信長を組み伏せた姿勢のまま、鼻をヒクヒクさせ、とろんとした瞳で空中を見つめた。
その表情は、先ほどまでの武闘派村長のものではない。完全に美味しいオヤツを前にした、ただのウサギの少女の顔だった。
キャルルはゆっくりと膝を下ろし、地面に落ちたチョコレートの一粒を、泥に汚れるのも構わず素手で拾い上げた。
そして、恐る恐る口元へ運び、小さな前歯でカリッと噛じる。
「…………ッ!!!」
キャルルのウサ耳が、これ以上ないほどピンと直立した。
口いっぱいに広がる、濃厚なカカオの苦味と、それを包み込む洗練された甘味。
「美味しい……! なにこれ、すごい! ハニーかぼちゃより、マイ茄子より、ずっと、ずーっと甘くて、濃厚!!」
キャルルは、その場にへたり込み、残りのチョコレートを一気に口へ放り込んだ。幸せそうな表情で、リスのように頬を膨らませてモグモグと咀嚼する。
その背後には、花の幻影が見えるかのようだった。
「……助かった、のか?」
信長は、タクティカルナイフを構えたまま、地面に座り込んでチョコに夢中になっているキャルルを、呆然と見つめた。
蘭の言っていた「脳のカロリー切れ」どころか、蘭のチョコそのものが、この異世界の最強生物を無力化してしまったのだ。
「隊長! ご無事ですか!?」
後ろに下がっていたレンジャー隊員たちが、恐る恐る駆け寄ってくる。
「ああ……なんとか。銃を使わずに済んだぞ。蘭のチョコのおかげでな」
信長は、苦笑いしながらナイフを鞘に収めた。
銃弾でも剣でもなく、一粒のチョコレートが、1400万人の命運を賭けた最初の死闘を、奇跡的に止めたのである。
だが、信長はまだ気づいていなかった。
蘭のチョコがもたらした「奇跡」は、単に戦闘を止めただけにとどまらない。この甘味こそが、この漂流国家が異世界で生き残るための、最大の「兵器(切り札)」になるということに。
チョコを咀嚼し終えたキャルルが、ウサ耳を揺らしながら、きらきらした瞳で信長を見上げた。
「ねえ、あなた! さっきの甘いの、もっと持ってるの!?」
「え? ああ、箱ごと蘭……技官に貰ったから、あと数粒はあるけど」
「全部ちょうだい!! お願い! あと、どこで手に入るの!? どこに行けば、これがもっと食べられるの!?」
キャルルが身を乗り出し、信長の手を握りしめた。先ほどまでの殺意はどこへやら、今の彼女は完全に「甘味」という未知の麻薬に溺れた、チョロいウサギだった。
「交渉……成立、だな」
信長は、キャルルのウサ耳を眺めながら、勝利を確信した。
1400万人の胃袋を満たすための、壮大な「お使い」。その最初の扉が、蘭のチョコによって、呆気なく開かれようとしていた。
その時。森の奥から、騒がしい足音が近づいてくる。
キャルルの無双ぶりに、村の他の住人たちが駆けつけてきたのだ。
「キャルル様! ご無事ですか! 侵略者はどちらに!?」
草むらを掻き分けて現れたのは、猫の耳を持つ青年と、完璧な執事服に身を包んだ男だった。
ポポロ村の財務担当ニャングル、そして宰相兼執事のリバロンである。
彼らは、地面に座り込むキャルルと、その前に立つ陸自迷彩の男たちを見て、即座に状況を察した。
特に、猫耳の青年ニャングルは、キャルルの口元に付いたチョコの跡と、信長が持つチョコの箱を見て、その長い尻尾をピンと立てた。
「……ほう。キャルルをチョコ(甘味)で手懐けるとは。えらい『価値あるもん』を持っとる侵略者やなぁ」
ニャングルの瞳が、商人の瞳(ギラギラした金の亡者の瞳)へと切り替わる。
異世界の商人と執事が、日本側の「未知の価値」に気づき、ここから戦場は、剣から「算盤」へと移ろうとしていた。




