EP 8
泥に咲く北辰の刃
木々をなぎ倒すような勢いで、ハガルが宙を蹴った。
その踏み込みは、もはや「走る」という次元を超えている。空中の枝、太い幹、そして僅かな岩の凹凸すらも足場に変え、あらゆる角度から信長の命を刈り取りにくる三次元の跳躍。
「死を見つけた戦士に、小細工など通じぬ!!」
ハガルの両手に光る鉄爪が、信長の頭上から十字の死線を引いて降り注ぐ。
いかなるカウンターを合わせられようと、肉を斬らせて骨を断つ。その狂気の突撃に対し、信長はナイフとシャベルを構えたまま——一歩、足元の『泥濘』へと深く後退した。
「……シィッ!」
ハガルが着地と同時に爪を振り抜く。
だが、その一撃は信長の残像を切り裂くのみだった。信長は後退しながら、持っていた『コンバット・シャベル』の面で、足元の分厚い泥水をハガルの顔面に向けて全力で跳ね上げていたのだ。
「泥めくらなど……!」
ハガルは瞬時に腕を交差させ、目への直撃を防ぐ。
だが、信長の狙いは「目潰し」ではなかった。
「退かねえってことは、足元がお留守になるってことだ」
泥を被ったハガルが次に踏み出したその足元。そこは、信長が防戦一方になりながらも、先ほど泥水に突っ込んだ際にシャベルで『密かに掘り返しておいた』深いぬかるみの窪みだった。
「……ッ!?」
地形の不利。地の利を極めて実践的に操る戦理が、一瞬だけハガルの超機動に「ブレ」を生じさせた。足首が泥に絡め取られ、前傾姿勢のバランスがコンマ数秒崩れる。
(……ここだ!!)
信長はその一瞬の「ブレ」を見逃さなかった。
退かずに前へ出続ける敵なら、その前進のベクトルを逆手に取ればいい。親父から骨の髄まで叩き込まれた『北辰一刀流』の理合。それは、力で相手を制するのではなく、相手の力を利用して懐に潜り込む極限の合理性だ。
信長は、崩れかけたハガルの懐へと、地を這うような低い姿勢で滑り込んだ。
そして、逆手に持ったタクティカル・ナイフの刃を、ハガルの鎧の隙間——左太ももの大動脈スレスレへと冷酷に突き立てた。
「ガァァァッ!!」
ハガルが低く獣の咆哮を上げる。
「まだだッ!」
信長は刃を引き抜かず、その柄を軸にして強引に体を捻り、ハガルのもう片方の足の関節をシャベルの縁で容赦なく叩き砕きにいく。
武芸の美しい型などクソ食らえだ。泥を投げ、罠にハメ、関節を砕く。生き残るためなら、自らの血と泥すらも兵器に変える『五輪』の哲学。
だが、ハガルもまた本物の獣だった。
普通なら激痛で動けなくなる致命傷を負いながらも、彼は一切の悲鳴を上げず、太ももにナイフを刺された状態のまま、信長の首元へと右手の爪を振り下ろした。
(相打ち上等ってか……! イカれてやがる!)
ガギィィィッ!!
信長は咄嗟にシャベルの柄で鉄爪を受け止めるが、強烈な重みで柄がメキメキと軋みを上げる。二人の顔が、互いの息が届くほどの至近距離で激突した。
「……生への執着など、戦士を鈍らせるだけの鎖に過ぎぬ。貴様のその泥臭い足掻きも、ここで終わりだ」
ハガルが血を吐きながら、冷徹な瞳で信長を睨みつける。
「……鎖だぁ?」
信長は、全身の骨が軋む痛みに耐えながら、血だらけの歯を見せてニヤリと笑った。
「戦場で綺麗に死んで、伝説にでもなりてえのか? ……ふざけんな。俺たちに帰りを待ってる家族(国民)がいる限り、俺たちは絶対に『生きて』帰らなきゃならねえんだよ」
信長の脳裏に、エプロン姿でカレーを作っていた親父や、幼い妹の千姫の顔がよぎる。
国を背負うということは、死んで責任を取ることではない。這いつくばってでも生き残り、明日を繋ぐことだ。
「生き汚く足掻いて、泥水すすってでも……最後まで立ってた奴が勝者だ!!」
信長はシャベルを強引に弾き飛ばし、ガラ空きになったハガルの鳩尾に向けて、自らの額を全力で叩き込んだ。
ゴゴォッ!という鈍い音と共に、渾身の『頭突き』がハガルの呼吸を完全に刈り取る。
「ガハッ……!?」
肺から空気を強制排出され、ハガルの巨体がついに泥濘の中へと膝をついた。
「ハァ……ハァ……」
信長もまた、限界を超えた肉体が悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えて立っていた。
ハガルは泥まみれになりながら、ゆっくりと信長を見上げた。
自分の「死狂い」の美学を、この若きチキュウの兵士は「泥臭い生への執着」で完全に打ち破ったのだ。
(……なんという男だ)
ハガルの胸の奥で、敵に対する純粋な戦士としての「敬意」が芽生え始めていた。
ただの餌食ではない。この男は、己の全てを懸けて生き抜くという「真の武士道」を体現している。
「……見事だ、チキュウの兵士よ。だが……」
ハガルは、血まみれの鉄爪を再び握り直し、ゆっくりと立ち上がった。
彼もまた、王の剣としての矜持がある。ここで倒れるわけにはいかない。
互いに満身創痍。血と泥に塗れた二人の男は、最後の一撃を交えるべく、静かに構えを取った。
その時である。
『五円!五円!御縁!御縁!ハイ!』
死闘の極限の静寂を切り裂くように、ひどく場違いで、ポップで、底抜けに明るい歌声が、森の奥から響き渡った。




