EP 5
鷹の警戒と、軍人の矜持
カレーの香辛料がもたらす熱気と、おでんの出汁がもたらす幸福感。
ポポロ村の広場には、大国の首脳会談とは思えない、どこか抜けたような穏やかな空気が流れていた。
だが、空になった皿を眺めていた内務官サイラスの鋭い瞳が、ふと我に返ったように冷たく光った。
(……恐ろしい。これほどまでの「満足」を、私はこれまでの人生で知らなかった)
サイラスの脳内OSが、急速に再起動を始める。
彼の愛読書の一つである『すばらしい新世界』が教える真理——「苦痛なき管理」と「快楽による家畜化」。
もし、このカレーや出汁の製法が獣人王国に広まったらどうなるか。戦士たちはこの味を求め、チキュウという供給源に依存し、牙を研ぐことよりも「次は何を食べさせてくれるのか」を考えるようになる。
(これは、文明の生態系を書き換える「侵略」だ。武力を使わず、相手を自発的に隷属させる……まさに『影響力の武器』そのものではないか!)
サイラスは、まだ口の中に残るスパイスの余韻を強引に振り払い、居住まいを正した。
「……陛下、そしてチキュウの将軍よ。この『カレー』とやら、実に見事な一撃でした。認めざるを得ない、我々の完敗だ」
「ははは、そうか。おかわりはまだあるぞ、サイラス」
真一が笑って鍋を持ち上げようとするが、サイラスはそれを手で制した。その顔からは、先ほどまでの恍惚感は消え、冷徹な内務官の表情に戻っていた。
「だが……食卓を囲むだけで決まるのは、商談までだ。我々レオンハート獣人王国が求めているのは、単なる『美味しい隣人』ではない。共にジャングルの掟を生き抜く『強き同盟者』だ」
サイラスの言葉に、アーサー王もまた、ライオンの鬣を揺らして視線を鋭くした。王もまた、食事の快楽の奥にある「外交の真意」を問い直していた。
「サイラスの言う通りだ。チキュウの『文化』と『豊かさ』は理解した。だが……」
アーサー王は、真一の隣に立つ信長へと視線を移した。
「……群れを率いる者は、その牙が本物であることを証明せねばならぬ。いかに甘美な果実を持っていようと、それを守る爪を持たぬ者は、ジャングルでは奪われるだけの存在だ」
アーサー王が発したその「王の覇気」に、周囲の空気が一瞬で凍りついた。
近衛騎士団長ハガルが、音もなく立ち上がる。彼の瞳には、先ほどおでんに涙した面影など微塵もない。そこにあるのは、獲物の喉笛を狙う豹の、凍てつくような殺意だった。
「陛下。……チキュウの将軍を試すお許しを」
ハガルが低く唸る。
「待て、ハガル。司令に手を出すのは俺が許さねえ」
信長が前に出た。腰のホルスターに手をかけ、レンジャー特有の「殺気を殺す」構えをとる。
「……坂上尉、下がって。これは外交の儀式です」
輝夜が静かに信長を制し、アーサー王とサイラスを真っ直ぐに見据えた。
「サイラスさん。私たちが単に『甘い蜜』で誘うだけの国ではないことを、証明すれば良いのですね?」
「左様。我が国の法と秩序は、常に『強さ』を基準としている。……チキュウの科学兵器ではなく、諸君ら自身の『個』としての力を見せていただきたい。それが、我々獣人が相手を対等と認めるための絶対の条件だ」
サイラスは冷酷に言い放った。
『利己的な遺伝子』の生存戦略は、常に強き者を選別する。
彼らが恐れているのは、日本の「便利さ」に溺れ、自分たちが弱体化することだ。ならば、その日本の中心にいる人間たちが、自分たちを凌駕する「野生」を持っていることを示さねばならない。
「よかろう。……手合わせといこうや」
真一が、ピンクのエプロンをゆっくりと脱ぎ、信長の肩を叩いた。
「信長。……お前、自分のことを『地獄に浸かってねえ半人前』だと思ってんだろ」
「……ああ。親父の背中を見てると、そう思わざるを得ねえよ」
「なら、ええ機会じゃ。……帝国の隠密とはレベルが違うぞ。こいつは、死を隣に置いて生きとる『本物の獣』じゃ。……国民の地獄を背負う前に、まずは目の前の獣の牙を、その身で受けてこい」
真一の言葉は、突き放すようでいて、強烈な信頼を孕んでいた。
「……了解だ。第1連隊、坂上信長。……日本の『爪』がどれほどのものか、その身に刻んでやるよ」
信長が、一歩前に出る。
対するは、豹耳族の最強の戦士、ハガル。
「決闘の形式は、一対一の得物自由。降参するか、戦闘不能になるまでだ。……異存はないな?」
サイラスが問いかける。
「ああ。ポポロ村の広場じゃ狭い。……あっちの森の中でやろうや」
信長が、森の闇を指差した。
美食の余韻が残る中、事態は一気に「血と鉄」の匂いへと塗り替えられた。
チキュウの『若き獅子』信長と、獣人王国の『沈黙の豹』ハガル。
二人の戦士のプライドと、両国の命運を懸けた、極限のジャングル・サバイバルが幕を開けようとしていた。




