EP 3
獣の王、推参(ジャングル・ブックの論理)
ルナミス帝国、アバロン神聖国、そしてレオンハート獣人王国。
大陸を三分するその巨大な軍事国家の頂点に君臨する男は、一切の護衛の軍隊を伴わず、たった二人の腹心のみを連れてポポロ村の境界線を歩いていた。
獣人王、アーサー。
黄金の鬣を持つ獅子耳族の巨漢は、夜の森を踏みしめながら、静かに思索に耽っていた。
(……歴史は、常に繰り返す)
彼の脳裏にあるのは、この大陸で興っては滅んでいった数多の国家の記憶だ。
いかに強大な帝国であろうと、巨大化しすぎた組織は必ず内側から腐敗し、滅びの道を辿る。それは知性を持つ生き物が逃れられない歴史の必然だ。
突如として現れ、ルナミス帝国を経済で丸飲みした『チキュウ』という1400万人の漂流国家。
彼らの持つ異常な技術や資本力も、アーサーから見れば「歴史の徒花」に過ぎない。どんなに高度なシステムを作ろうと、最後にこの世界を支配するのは「牙と爪」——剥き出しの生存競争の掟である。
「……陛下。ポポロ村はもう目と鼻の先です」
内務官のサイラスが、冷徹な声でアーサーに囁いた。
「我が国の間者からの報告によれば、チキュウは文化や経済という『見えない侵略』で他国を支配する外来種です。彼らの毒に組み込まれれば、我が国の戦士たちは誇りを忘れ、牙を抜かれた家畜となるでしょう」
「ああ。分かっている、サイラス」
アーサー王は、腰に提げた巨大な大剣の柄に手を添えた。
「言葉で飾ろうと、外交とは結局『どちらが上位の捕食者か』を決める縄張り争いだ。……チキュウのトップが少しでも我々を従属させようとする素振りを見せれば、その場で首を刎ねる」
王の決意に、近衛騎士団長ハガルの豹の耳がピクリと動いた。
「……血の匂いがします。村の奥に、極めて強力な『個』が数人。……いつでも殺れる準備はできています」
獣の国のトップ3が、究極の緊張状態(臨戦態勢)のまま、ポポロ村の広場へと足を踏み入れた。
彼らは予想していた。重武装の軍隊による威圧か、あるいは魔法の罠か。
だが——。
「おお、来たか。ちょうどええタイミングじゃ」
広場の中央で彼らを待ち受けていたのは。
「LOVE CHIHIRO」と書かれたピンク色のエプロンを身につけ、巨大な寸胴鍋を木べらでかき混ぜている初老の男だった。
「…………は?」
アーサー王が、思わず素の声を漏らす。
「親父……頼むから、日本の威信を懸けたトップ会談で、その娘バカ全開のエプロンはやめてくれ……! 相手の殺気がスゲーことになってるぞ!」
鍋の隣では、1等陸尉の信長が顔を引きつらせて頭を抱えていた。
その信長の横で、割烹着を身につけた日野輝夜が、信長の背中をポンポンと叩いてなだめている。
「まあまあ、坂上尉。美味しい匂いがすれば、誰だって無駄に争う気はなくなりますよ」
輝夜はニコリと微笑むと、獣人たちの方へ向き直り、丁寧にお辞儀をした。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。日本国政府の代表としてお待ちしておりました」
「お、お前たちが、あのルナミス帝国を屈服させたチキュウの指導者だと言うのか……!?」
アーサー王は混乱していた。
目の前にいる男(真一)からは、一切の覇気も殺気も感じられない。ただ、ひたすらに鍋をかき混ぜているだけだ。
「出雲艦隊総司令の坂上真一です。まあ、堅い話は後じゃ」
真一は木べらを置き、パンパンとエプロンの埃を払った。
「ウチの国じゃ、今日みたいな金曜日は『カレー』と決まっとるんでね。美味いもん食いながら話そうや。……輝夜ちゃん、萩焼の皿を並べてくれ」
「はい、坂上司令」
(……なんだ、この空間は?)
内務官サイラスの額に、冷や汗が流れる。
相手を威圧するでもなく、へりくだるでもない。極めて自然体で、自分たちの「生活のペース」に相手を巻き込もうとしている。
特定の構えに固執せず、状況に応じて最も自然な形で相手の虚を突く。真一の根底にある『五輪書』の実戦哲学が、この異常な外交の場を完全に支配していた。
「……舐めるなよ、チキュウの人間」
ハガルが、低く唸るような声で前に出た。
「我々を毒殺する気か? 獣の嗅覚を誤魔化せると思うな。その鍋から漂う、鼻を刺すような刺激臭……明らかに劇薬の類だ!」
ハガルの言う通りだった。
真一の煮込んでいる鍋からは、アナステシア世界の住人が嗅いだことのない、脳の奥髄を直接殴りつけるような強烈な香りが漂っていた。
「劇薬? ははっ、違いねえ。こいつは人間をダメにする最高のスパイスじゃけえな」
真一は不敵に笑い、お玉でたっぷりのカレーをすくうと、輝夜が用意した見事な萩焼の皿に、白いご飯と共に盛り付けた。
「疑うなら、俺が先に食ってやるよ」
真一はスプーンでカレーをすくい、美味そうに一口食べた。
「……うむ。今週の出来も完璧じゃ」
その姿を見つめる獣人たち。
アーサー王のライオンの鼻が、ヒクヒクと動いた。
(……なんだ、この匂いは。獣の防衛本能が「危険だ」と警鐘を鳴らしている。だが……)
アーサーの腹の底で眠っていた野生の胃袋が、その『劇薬の匂い』に対して、暴力的なまでの食欲を刺激されていた。ゴクリと、王の喉が鳴る。
「……良いだろう。チキュウの文化、我々も味見させてもらおうではないか」
「へ、陛下!? 危険です!」
サイラスが止めるのも聞かず、アーサー王は真一の前にズカズカと歩み寄り、ドカッと椅子に座った。
「さあ、輝夜ちゃん。王様たちにたっぷりよそってあげなさい。隣で煮込んどる『おでん』の大根もな」
「はい。熱いので気をつけてくださいね」
割烹着姿の輝夜が、三人の獣人の前に、湯気を立てる黄金色のカレーと、出汁が極限まで染み込んだ大根の皿をコトンと置いた。
大国の存亡を懸けた外交交渉のテーブルに並べられたのは、日本の一般家庭の金曜日の象徴——「カレーライス」と「煮込みおでん」。
「……フン。このような泥色の食べ物で、獣の王を手懐けられると思うなよ」
アーサー王は警戒心も露わにスプーンを手に取り、カレーをすくい上げ、自らの口へと運んだ。
その瞬間。
獣人王国の歴史を揺るがす「未知の暴力」が、彼らの脳髄を打ち砕くことになる。




