EP 2
温かい食事と、月の導き
ポポロ村の村長宅、その奥にある簡素な厨房から、カツオと昆布の出汁の優しい香りが漂ってきた。
「……信じられないニャ。チキュウの特使様が、エプロン姿で大根を煮込んでるニャ」
ニャングルが厨房の入り口から顔を覗かせ、目を丸くする。
スーツの上着を脱ぎ、見事な手つきで包丁を振るう日野輝夜。彼女は日本の農村部をフィールドワークで練り歩き、自らも家庭菜園を愛する「生活者」であった。異世界の食材——太陽芋や特産の根菜を見極め、防衛省の携行食料から拝借した調味料で、手早く一汁一菜を作り上げていく。
「はい、お待たせしました。ポポロ村の根菜をたっぷり使った『けんちん汁』と、塩むすびです」
大きな木のテーブルに、湯気を立てるお椀と、ふっくらと握られたおにぎりが並べられた。
信長は黙って箸を割り、一口すする。
(……美味い。親父の作るスパイスカレーとは違う、胃袋の底からじんわりと温まる味だ)
そして、誰よりも激しい反応を見せたのは、パンの耳と雑草サラダを主食としていた人魚姫・リーザだった。
「これ……タダで食べていいの……? あとで高額なツボとか売りつけてこない……?」
「ふふっ、売りつけませんよ。冷めないうちにどうぞ」
輝夜が優しく促す。
リーザはおそるおそるお椀を持ち上げ、ズズッと汁をすすった。
その瞬間。彼女のサファイアのような瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「うわあああぁんっ! あったかい……! あったかいよぉぉっ! しかも、味がするっ! 草の苦味じゃない、ものすごく深くて優しい味がするぅぅっ!」
リーザは両手でおにぎりを握りしめ、顔中を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、ハムスターのように頬張った。
純粋なカロリーと、出汁の旨味。極限のポイ活サバイバルで削られていた彼女の心身に、本物の「食事」が染み渡っていく。
「おいおい、そんなに急いで食うな。喉詰まらせるぞ」
信長が呆れながらも、自分の取り分の漬物をリーザの皿に無言でスライドさせた。
「特使のお姉さん……どうして、今日会ったばかりの私にこんなに優しくしてくれるの……? 私、落ちぶれた地下アイドルだよ? 帝国のお偉いさんみたいに、私を利用する価値なんて何もないのに……」
リーザが鼻をすすりながら尋ねる。
輝夜は、自分のぐい呑みに注いだお茶をゆっくりと一口飲み、静かに微笑んだ。
「価値があるから、ご飯を作るわけじゃありませんよ。……誰かのために手間をかけて料理を作ること。それは『目に見える形になった愛』だと、私は思っていますから」
輝夜の言葉には、どこかの本で読んだような薄っぺらさがない。彼女自身の生活という地に足のついた、確かな哲学があった。
「リーザさん、あなたは歌で世界を救うと言いましたね。……私も、似たような夢を持っているんです」
「お姉さんも、アイドルになりたいの?」
「いいえ。私は『太陽』のように、自ら燃え盛ってすべてを照らすような、眩しい主人公にはなれません。……でも、暗闇の中で迷っている人を見守り、そっと道を照らす『月』でありたいんです」
輝夜は窓の外、ポポロ村を照らす月を見上げた。
「朝起きて、挨拶をして、それぞれが自分の場所で一生懸命に働いて。……夜にはこうして、温かいご飯を食べて、月を見ながらみんなで笑い合える。私は、そういう当たり前の『生活』が続くように、政治という裏方から支えたいんです」
誰かを蹴落としてトップに立つのではなく、人々の営みを土台から支える。それが彼女の『逝きし世の面影』を愛し、『コミュニティデザイン』を実践する政治家としての信念だった。
「……月」
リーザは、その静かで熱い言葉に釘付けになった。
これまで彼女が見てきたルナミス帝国の貴族たちは、皆、他人を蹴落として自分が太陽になろうとギラギラしていた。だが、目の前のこの女性は違う。圧倒的に静かで、深い。
「……お姉さん、かっこいい」
リーザは涙を拭い、みかん箱の上で歌っていた時とは違う、真剣な瞳で輝夜を見た。
「私……お姉さんみたいな人のために、歌いたいかも」
(……この女。本当に「地獄」を知らねえんだな)
そのやり取りを黙って聞いていた信長は、心の中で親父(真一)の言葉を反芻していた。
軍人である自分たちとは全く違うアプローチ。武力でも、金でもなく、「情」と「生活」で相手の懐にスッと入り込む。
それは時に、どんな兵器よりも恐ろしい『ソフトパワー』となり得るのだと、信長は肌で感じていた。
だが、ポポロ村が温かな食事と人情に包まれていたその頃。
村から数キロ離れた深い森の木の上に、音もなく舞い降りた影があった。
「……ルナミス帝国の工作部隊を退け、巨大な経済圏を築き上げつつあるというチキュウの特使。どれほどの猛者が来るかと思えば……女子供と飯を食っているとはな」
冷徹な視線で村を見下ろすのは、レオンハート獣人王国の内務官・バード族のサイラスだった。
彼の背後には、闇に溶け込むような豹の耳を持つ男——近衛騎士団長ハガルが、音もなく控えている。
「ハガル。お前の目から見て、あの二人のチキュウ人はどう映る?」
「……スーツの女(輝夜)からは、一切の殺気を感じません。ただの文官でしょう。……だが」
ハガルの獣の瞳が、縁側でタバコを吸い始めた信長の姿を鋭く捉えた。
「あの迷彩服の男(信長)。一見隙だらけに見えますが、筋肉の弛緩と緊張のバランスが異常だ。いつでもこちらの喉笛を食い破れる位置に重心を置いている。……血の匂いがします」
「ほう。お前がそこまで言うとはな」
サイラスは、鳥類特有の瞬きをしない目でポポロ村を俯瞰した。
「チキュウの『文化』と『武力』。我が国という巨大なシステムにとって、それが有益な『遺伝子』となるか、それとも生態系を破壊する『外来種』となるか。……アーサー王が到着される前に、我々で品定めをさせてもらおう」
月明かりの森の奥で、獣の国の冷徹な頭脳と最強の牙が、静かに日本の特使へと狙いを定めていた。




