EP 12
算盤と王冠
数日後。
三カ国の緩衝地帯であるポポロ村に、にわかに信じがたい光景が広がっていた。
村の中央に急造された、巨大な白木の円卓。
その片側には、ルナミス帝国皇帝マルクスと、近衛騎士団長リカオン。
そして向かい側には、日本の与党幹事長・若林幸隆、出雲艦隊総司令・坂上真一、そしてメガバンク執行役員の坂上恵が座っていた。
周囲には、緊張の面持ちで両国の護衛が立ち並んでいるが、武器を抜く者はいない。
卓上にあるのは、剣でも魔法陣でもなく、分厚い「経済同盟の条約書」と、ゴルド商会のニャングルが弾く算盤だけである。
「……これが、我が国が提案する『新・大陸経済圏構想』の全容だ」
若林が、ピースの煙を燻らせながら書類を指で叩いた。
「ルナミス帝国が抱える広大な未開拓農地に、我が国の大田区が誇る『農業用トラクター(機械)』と『化学肥料』を導入する。これにより、貴国の小麦の収穫量は現在の十倍以上となる。その余剰分を日本が適正価格で買い上げ、代わりに貴国には日本のインフラ技術と医薬品を提供する」
条約書に目を通していたマルクスの手が、ピタリと止まった。
「……チキュウの中央銀行と、帝国の国庫を為替で連動させるだと? しかも、その管理システムをポポロ村のゴルド商会に委託する……」
「ええ、そうですわ」
恵が、美しい笑みを浮かべて言葉を継ぐ。
「金本位制(現物)に縛られた経済は、非常時に脆すぎる。これからは、両国の『信用』を担保にした全く新しい共通通貨を構築します。……心配はいりません。私が責任を持って、帝国の経済を『死なない程度に、かつ最高効率で』運用して差し上げますから」
メガバンクのバケモノによる、事実上の『帝国経済の完全掌握』。
だが、その提案書に書かれた数字は、マルクスがこれまでどんなに他国を侵略し、市場を買い占めても決して弾き出せなかった「莫大な利益と豊かさ」を示していた。
道徳(共存)と、算盤(利益)の完全なる一致。
(……これが、彼らの戦い方か)
マルクスは、己の敗北を脳の髄まで理解した。
日本のシステムは、敵を滅ぼすのではない。圧倒的な利益と合理性によって、敵が自ら武器を捨てて「このシステムの一部になりたい」と渇望するように仕向けるのだ。
それは魔法よりも遥かに恐ろしく、そして抗いがたい「豊かさという名の暴力」だった。
「……見事だ。君たちは、剣を抜かずに私の帝国を丸飲みにしてしまった」
マルクスは小さく息を吐き、万年筆を手に取ると、一切の躊躇いなく条約書にサインした。
その瞬間、彼が長年たった一人で背負い続けてきた「帝国の遺伝子を残す」という重すぎる王冠の重圧が、スッと軽くなるのを感じた。
「これで、私の箱庭が散ることはなくなった。……悪くない取引だ」
マルクスが微かに口角を上げたのを見て、背後に控えていたリカオンもまた、静かに目を伏せた。
そのリカオンの視線の先では、真一が『ハイライト』を差し出している。
リカオンは無言でそれを受け取り、互いに火を点け合った。泥を被り、地獄を知る猟犬同士にしか分からない、言葉のない「終戦」の合図だった。
「にゃはは! これでウチの商会も、チキュウと帝国の大パイプ役ニャ! 笑いが止まらんニャ!!」
「……お行儀が悪いですよ、財務担当。ですが、ええ。悪くない結末ですね」
ニャングルが算盤を抱えて歓喜のステップを踏み、リバロンが呆れたように紅茶を淹れる。
その横では、村長キャルルが「もう、村の前庭ボロボロにしないでよね!」と怒りながらも、嬉しそうに人参柄のハンカチで汗を拭っていた。
同日深夜。
東京、防衛省の地下喫煙所。
「……終わったのう、総長」
「ええ、先生。……ホンマに、おっそろしい嫁じゃ」
換気扇の下で、若林と真一はネクタイを緩め、故郷の広島弁で深く息を吐き出していた。
血の一滴も流れない、完全な勝利。
かつて先の大戦で『目的と手段を履き違え』『精神論に逃げて』国を焼野原にした日本の組織が、今度はその教訓(失敗の本質)を完璧に活かしきったのだ。
情報を制し、経済を連動させ、戦わずして敵を屈服させる。これこそが、兵法の最高峰が示す「百戦百勝は善の善なる者に非ず」の体現であった。
「これで、我が国が餓死する心配は当分なくなった。大帝国という『巨大な農場』を手に入れたからな」
若林は、ジッポーライターで新しい『ピース』に火を点けた。
その目には、永田町の妖怪としての底知れぬ野心が燃えている。
「だが、まだ終わらんぞ。この大陸には、獣人の国や、エルフの国……まだ見ぬ市場が山ほどおる」
「ははっ。先生は、この異世界全部を『日本の下請け』にする気ですか」
「当然じゃ。我が国が生き残るための『安全保障』とは、そういうことじゃろうが」
真一もまた、ニヤリと不敵に笑い、『ハイライト』の煙を天井へと吹きつけた。
「……なら、俺たち自衛隊は、その経済圏を守るための『絶対に抜かせない刀』として、せいぜい睨みを利かせときますわ」
漂流した1400万人の国家は、もうただの難民ではない。
異世界の神獣すらアイドルとして飼い慣らし、大帝国の経済を紙切れ一枚で支配する、資本主義と技術の「絶対的覇者」へと覚醒したのだ。
防衛省の地下から見上げる東京の夜空は、今日からまた、煌びやかなネオンの光で満たされている。
腹を満たし、システムを取り戻したこの狂った都市が、次にどの国を飲み込んでいくのか。
異世界の大地を揺るがす「日本の逆襲」は、まだ始まったばかりである。




