EP 11
大切なものは、目に見えない
ルナミス帝国、帝都の中心にそびえる白亜の宮殿。
広大で豪奢な玉座の間は、死のような静寂に支配されていた。
かつてここを満たしていた貴族たちの権力闘争の声も、軍部の勇ましい怒号もない。ただ、冷え冷えとした大理石に反射する月明かりだけが、玉座に座る一人の男を照らし出していた。
マルクス皇帝。
彼の足元には、数枚の報告書が散らばっている。
東部市場の完全なる崩壊。貴族たちの内乱。そして数分前、魔導通信が回復した直後に届いた、リカオン近衛騎士団長からの『作戦の完全なる失敗』を告げる暗号通信。
経済、情報、武力。帝国が持っていたすべての手足は、日本という1400万人の漂流国家によって完璧に切断された。
将棋で言えば、王将以外すべての駒を奪われた完全なる「詰み」である。
「……私の、計算違いか」
マルクスは、玉座の肘掛けに顎を乗せ、虚空を見つめて静かに呟いた。
怒りはない。狂乱もない。
ただ、彼の脳裏にあるのは、かつて自らが即位した日の記憶だった。
腐敗しきった貴族政治の果てに、飢えに苦しむ1億の民。
マルクスは、その広大な領土という名の「荒れ果てた箱庭」を、一人で手入れすると決めたのだ。
他国を侵略し、冷酷に市場を支配し、時には血の粛清を行いながら、帝国の遺伝子を後世へ残すための『完璧なシステム』を作り上げた。
(私は、誰に理解されずとも良かったのだ)
マルクスは、自らの胸に手を当てた。
他国から見れば、彼は冷酷無比な独裁者だろう。だが、彼にとってはこの帝国こそが、広大な宇宙にたった一つだけ咲く「自分のためのバラ」だった。
そのバラが嵐に吹かれて散らないよう、泥に塗れ、ガラスのドームで覆い、時には近づく者を容赦なく殺してきた。
それが、彼なりの不器用で、歪で、悲しいほどに純粋な『愛』だったのだ。
「……陛下」
重い扉が開き、血と泥に塗れたリカオンが、足を引きずりながら玉座の間へと入ってきた。
ポポロ村で凄まじい衝撃波を浴びた彼は、満身創痍だった。
「申し訳ありません……。私の無力が、帝国を……」
「よい、リカオン」
マルクスは立ち上がり、静かに階段を降りてリカオンの肩に手を置いた。
「お前は、この箱庭を守るためによく戦ってくれた。……責を負うべきは、システムを構築した私一人だ」
その時。
玉座の間の空間がチカチカと明滅し、青白いホログラムが浮かび上がった。
現れたのは、スーツ姿でタバコを吹かす男——日本の与党幹事長、若林幸隆である。
『……随分と、静かな夜のようだな、皇帝陛下』
「チキュウの政治家か。……ああ。すべては諸君らの計算通りだ」
マルクスは、一切の言い訳をせず、淡々と事実を認めた。
「情報と市場を操作し、我が帝国を内側から崩壊させる。見事な手腕だ。諸君らが持ち込んだ技術や資本は、我が国の魔法よりも遥かに恐ろしい毒だった。……私の、完全な敗北だ」
マルクスの言葉に、リカオンが悲痛な顔で俯く。
『敗北、か』
若林は、ピースの煙を吐き出しながら、ホログラム越しにマルクスの目を見据えた。
『あなたは、1400万人の我々を「帝国を脅かすシステム(外来種)」だと認識し、排除しようとした。自国の民(遺伝子)を守るための、合理的で冷徹な君主の決断だ。……だが、私はあなたという男を、ただの血も涙もない機械だとは思っていない』
「……何が言いたい」
『本当に血の通っていない暴君なら、今頃は自分だけ逃げるか、民を盾にしてでも最後の悪あがきをしているはずだ』
若林の鋭い視線が、マルクスの本質を射抜く。
『あなたは、ただ一人で「重すぎる王冠」を被りすぎたんだよ。数字や理屈だけで国を守ろうとして、本当に大切なもの……人間同士が手を取り合って生み出す「熱」のようなものを、見落としていた』
大切なものは、目に見えない。
数字や帳簿、遺伝子の生存確率といった合理性だけでは割り切れないものが、国家という巨大な生き物の根底にはある。
『先日、私はこう言ったはずだ。「道徳なき利益は強奪だが、利益なき道徳もまた国を豊かにはできない」と』
若林は、ホログラム越しに右手をスッと差し出した。
『あなたの国は今、死に体だ。我が国も、このままでは数年後に資源が尽きる。……我々は、互いに「欠けた半分」を持っている。ならば、今度こそ大人の取引をしようじゃないか。皇帝陛下』
マルクスは、差し出された若林の「見えない手」を、じっと見つめた。
それは、彼が今まで決して信じることのなかった、他者との「共存」という名の道だった。
「……我が帝国は、諸君らの資本の奴隷になるか?」
『奴隷じゃない。経済圏の「共同経営者」だ。あなたの国の民を、我々の技術で誰一人飢えさせないことを約束しよう』
マルクスは目を閉じ、深く、長く息を吐き出した。
そして、彼が長年被り続けてきた、見えない鉄の仮面が、音を立てて崩れ落ちる。
「……承知した。ルナミス帝国は、チキュウという国家との、全面的な経済同盟を受け入れる」
皇帝が頭を下げた瞬間。
かつてない異世界の冷徹な経済戦争は、一人の血も流れることなく、しかし歴史を根本から覆す形で、完全なる決着を迎えたのであった。




