EP 9
狼と猫の騙し合い
ポポロ村の地下、特A級AIエンジニア・早乙女蘭が構築した絶対的なデジタル監視網の恩恵を、最も邪悪に、そして最も効果的に使いこなしている男たちがいた。
「にゃははっ! 情報の遅延は、そのまま金貨の重さになるニャ。……さあ、偽の相場情報を帝国の東部市場に流し込むニャ!」
ゴルド商会の商人・ニャングルが、複数のモニターを前に凄まじい速度で算盤を弾いていた。
彼の行っていることは、単純にして極悪な『情報操作』である。
アナステシア世界において、遠方の市場価格を知る手段は、商人たちの足か、一部の特権階級が持つアナログな魔導通信しかなかった。
だが今、日本のAIが帝国の魔導通信網をハッキングし、完全に掌握している。ニャングルはこれを利用し、帝国の商人たちが受け取る「市場価格のデータ」を、数時間から数日遅らせたり、あるいは意図的に書き換えたりしていた。
「戦争とは、相手に自らの意志を強要する行為ニャ。……なら、商売の殺し合いにおける急所はどこか? それは、商人たちの『信用』と『欲望』そのものニャ!」
ニャングルの腹の底にある『戦争論』の戦理が、市場という盤上で火を噴く。
彼は、帝国東部の穀物市場に「明日、マルクス皇帝が穀物を強制的に無償没収する」という【偽情報】を、ハッキングした帝国の公式通信ルートを使って極秘裏に流布した。
結果は火を見るより明らかだった。
強制没収を恐れた帝国の商人たちは、パニックに陥り、我先にと手持ちの穀物を闇市場へと投げ売りし始めたのだ。それを、ゴルド商会のダミー会社が底値で根こそぎ買い叩いていく。
「真実がどうかなんて関係ないニャ。人間は『情報』が作り出した現実に従って動く生き物ニャ」
すべては党の言う通りに。絶対的な情報統制が現実を書き換えるという『1984』の恐怖のロジック。
物理的な兵糧攻めを仕掛けていたはずの帝国は、自らの手足である商人たちが勝手に暴走し、内側から物流を麻痺させていくという奇妙な自死へと陥り始めていた。
「ニャングル殿が、市場の血流を見事に狂わせているようですね。……では、私は彼らの『頭脳』を狂わせるとしましょう」
同じ頃、ポポロ村の執務室で、人狼の執事・リバロンは優雅に紅茶を傾けていた。
彼の手元には、帝国の有力貴族や軍高官たちの名前が連なった詳細なリストがある。それは、彼がかつて帝国の腐敗貴族に仕えていた時代に、己の目で見て、記憶に焼き付けてきた「欲望と弱み」のデータベースだった。
「戦いにおいて最も下策なのは、城を攻めること。最上なのは、戦わずして敵の謀略を挫き、同盟を裂くこと」
リバロンは、純白の手袋をはめた指先で、リストの一つの名前をトンと叩いた。
帝国軍の兵糧を管理する、東部方面軍の司令官。
彼は表向きは皇帝に忠誠を誓っているが、裏では軍の物資を横流しして私腹を肥やしていることを、リバロンは知っていた。
「……彼に、我が主(旧主)の遺産である『横領の証拠(裏帳簿)』のコピーを、匿名で送りつけました。同時に、彼の政敵である別の貴族にも、同じものを」
リバロンは冷たく微笑む。
『孫子の兵法』——その真髄は、敵を知り、己を知り、そして敵の疑心暗鬼を最大限に煽ることにある。
「皇帝マルクスは冷徹な合理主義者ですが、彼の手足となる貴族たちは、決して一枚岩ではない。保身、嫉妬、権力欲……。自らの横領がバレることを恐れた司令官は、政敵に暗殺者を差し向けるでしょう。政敵は、私兵を集めてそれに報復する。……帝国の中枢は今、日本のことなど構っていられないはずです」
毒を盛る必要もない。刃を突き立てる必要もない。
ただ、彼らが隠したがっている『真実の欠片』を、最適なタイミングで、最適な相手に落としてやるだけ。
それだけで、大帝国の中枢は互いの喉笛を噛み千切る狂犬の檻へと変わる。
ルナミス帝国、帝都・作戦司令室。
「な、なんだこれは……! どうなっている!」
近衛騎士団長リカオンは、次々と飛び込んでくる絶望的な報告書の山を前に、血の気を引かせていた。
日本を兵糧攻めにするための物流網が、完全に崩壊している。
「団長! 東部市場の穀物が消滅しました! 商人たちが『皇帝陛下の強制没収』というデマを信じ込み、物資を隠匿しています!」
「西部方面軍はどうした!? 彼らの備蓄を前線に回せ!」
「そ、それが……西部司令官が、東部の貴族から暗殺の危機にあると主張し、自領の防衛のために私兵を全軍引き揚げてしまいました! 軍の指揮系統が麻痺しています!」
「……ッ!!」
リカオンは、拳を叩きつけて机をへし折った。
皇帝マルクスの『見えざる手』は、完璧なはずだった。日本の物資を自然な市場競争で干上がらせる、無駄のない兵糧攻め。
だが、その完璧なシステムは、人間の「利己的な欲望」と「恐怖」というノイズを注入された瞬間、自国の首を絞める最悪の鎖へと変貌したのだ。
(これが……チキュウの政治家が宣言した『総力戦』だというのか……!)
剣を交えることすら許されない。
姿の見えない敵が、情報と経済を操作し、帝国の貴族と商人を『自滅』へと誘導している。
「おのれ……! このままでは、日本を飢えさせる前に、我が国の内政が崩壊する!」
リカオンは漆黒の短剣を握りしめ、血を吐くような思いで決断を下した。
もはや、市場や謀略といった綺麗な手段で日本を包囲することは不可能だ。内側から腐り落ちていくこの帝国を繋ぎ止めるには、圧倒的な『結果(物理的勝利)』を持ち帰るしかない。
「……私が、全責任(罪)を被る」
リカオンは、忠誠を誓う皇帝の顔を思い浮かべながら、暗い瞳で呟いた。
謀略には謀略を。泥には泥を。
彼は近衛騎士団の最精鋭のみを招集し、皇帝の許可すら得ず、独断で「最後の強攻」へと打って出る決意を固めた。
標的は、日本の首魁が潜む東京そのものではない。
このすべての狂った情報と経済の『ハブ』となっている、忌まわしき緩衝地帯。
「ポポロ村を、物理的に焦土と化す。……邪魔立てする者は、いかなる理由があろうと斬り捨てる」
情報戦と経済戦で完敗した猟犬が、退路を断たれ、真の獣となって牙を剥いた。
狼と猫の謀略の果てに、戦局はいよいよ「最後の一線」へと突き進んでいく。




