EP 7
大人の交渉
「……暗号化通信ルート、確立。対象の魔力波長を完全に固定しました。いつでもいけます」
防衛省地下の中央指揮所。
特A級AIエンジニア・早乙女蘭がキーボードから手を離し、エナジードリンクをストローで啜りながら告げた。
「ご苦労、早乙女君。……さあ、異世界の大物と『ご対面』と行こうか」
与党幹事長・若林幸隆が、新しく火を点けた『ピース』の煙を細く吐き出す。
次の瞬間、指揮所の中央に設置されたホログラム装置が青白く発光し、一人の男の姿を等身大で映し出した。
ルナミス帝国、マルクス皇帝。
大理石の玉座に深く腰掛け、氷のように冷たく、知的な双眸でこちらを見据えている。
同時に、帝国の玉座の間にも、スーツ姿でタバコを燻らせる若林のホログラムが投影されていた。
ポポロ村での局地的な衝突を経て実現した、1400万人の漂流国家と、1億人の大帝国による、史上初の「トップ会談」である。
『……チキュウの指導者か。我が国の隠密部隊を退けたこと、まずは称賛しよう。だが、野蛮な武力衝突を望まぬからこそ、私は経済という平和的な手段で諸君らを包囲したのだ』
マルクス皇帝の低く響く声には、一切の感情が混じっていない。
『諸君らの抱える1400万人という巨大な胃袋は、この大陸の生態系を破壊する「外来種」だ。自ら朽ちて土に還るのが、最も理にかなった自然の摂理というものだろう』
「随分と冷たいことを仰る。……そちらが『見えざる手』で我が国の首を絞めようとしたから、こちらも少々手荒に猟犬を追い払ったまでですよ、皇帝陛下」
若林は、政治家としての完璧な、しかしどこか凄みのある笑みを浮かべた。
「今日は一つ、大人の提案をしに来た。……我が国には1400万人の労働力と、貴国にはない高度な『科学技術』がある。貴国には、広大な土地と資源がある」
若林は灰皿にトントンとタバコを落とす。
彼の行動原理の根底にあるのは、近代日本資本主義の父が唱えた『論語と算盤』の精神だ。
「道徳なき利益の追求は、単なる強奪に過ぎない。しかし、利益なき道徳もまた、国を豊かにはできない。……互いの足りないものを補い合い、新しい経済圏を作る。我が国の技術で帝国の農地を開拓すれば、収穫量は今の十倍になる。共に栄える道があるはずだ」
共存共栄の提案。
それは、経済戦争を即座に終わらせる、最も建設的で合理的な交渉だった。
だが、マルクスは表情一つ変えなかった。
彼にとって、若林の言葉は美しいだけの『詭弁』に過ぎなかった。
『……共に栄える、か。見事な理想論だ。だが、私は商人ではない。1億の民を背負う、帝国の君主だ』
マルクスは玉座からゆっくりと立ち上がり、若林のホログラムを見下ろした。
『自然界において、完全な共生など幻想に過ぎない。すべての生命は、自らの【遺伝子】を次代へ残すための、利己的な機械だ。国家もまた同じ。私という君主の役割は、ルナミス帝国という「種の器」を、何があろうと存続させることのみにある』
マルクスの言葉に、若林の目がスッと細められた。
皇帝の思想の根底にあるのは、徹底した生物学的な生存競争(『利己的な遺伝子』)、そして国を守るためならあらゆる道徳を切り捨てる冷徹な覇道(『君主論』)だった。
『チキュウの技術力は魅力的だ。だが、1400万の異物を我々の生態系に組み込めば、いずれ我が国の民は諸君らの技術と資本に依存し、内側から支配される。……それは、我が帝国という種の「敗北」を意味する』
マルクスは、冷酷な宣告を下した。
『ゆえに、共存はあり得ない。諸君らには、このまま干上がって死滅してもらうか、あるいは完全に奴隷として帝国に吸収されるか。……二つに一つだ。君主たる者、自国の生存(遺伝子)を守るためならば、いかなる残酷な選択も躊躇いはしない』
指揮所の空気が、凍りつくように冷え込んだ。
言葉は通じている。理屈も通っている。
だからこそ、若林は悟った。この男とは、絶対に分かり合えないということを。
マルクス皇帝は、私利私欲で動く愚君ではない。1億人の臣民を守るという重圧をたった一人で背負い、そのために「1400万人の異邦人を餓死させる」という極限の悪を、氷の理性で実行できる怪物なのだ。
「……交渉決裂、というわけですね」
若林は短くなったピースを灰皿に押し付け、ジュッと火を消した。
『最初から、交渉のテーブルなど存在しなかったのだよ、チキュウの政治家。……猟犬は退けたようだが、物流はまだ私が握っている。せいぜい、飢えに苦しみながら自滅していくがいい』
ブツンッ。
通信が切断され、マルクスのホログラムが指揮所からフッと消え去った。
重い沈黙が降りた地下室。
若林は、深く息を吐き出すと、傍らで険しい顔をしていた坂上真一へと振り返った。
「聞いたな、真一」
「……ええ。背筋が凍るような、おっそろしい御輿です。腹の底から国を守ろうとしとる。あんなバケモノ、小手先の策じゃどうにもならんでしょう」
「ああ。相手が『種の存続』を賭けて徹底的にこちらを殺しに来るというのなら……こちらも、国家のフェーズを一段階引き上げるしかない」
若林は、ネクタイを少し緩め、夜叉のような鋭い目を真一に向けた。
「自衛隊、警察、経済界、そして町工場の末端に至るまで、すべてのシステムを連動させろ。……これより我が国は、ルナミス帝国との『総力戦』に移行する」
大人の対話は終わった。
血の流れない、だが一歩間違えれば一瞬で1400万人が死に絶える、極限の盤上サバイバルがいよいよ本格的に動き出そうとしていた。




