EP 5
泥まみれの特使
特A級AIエンジニア・早乙女蘭が構築した絶対的な監視網。
そのシステムの物理的な中枢——ポポロ村の地下に急造されたサーバー群と通信アンテナを守るため、日本から極秘裏に派遣された『特使』がいた。
陸上自衛隊・第1師団所属、1等陸尉・坂上信長。
「……各員、配置につけ。蘭の監視システムからアラートが出た。帝国のネズミどもが、撤退ルートを外れてこちらの防衛ラインに向かってきている」
ポポロ村郊外の暗い森の中。
迷彩服に身を包み、顔に泥を塗った信長は、暗視ゴーグル越しに静かに部下たちへ指示を出した。
特使としての外交任務を終えた直後、彼はポポロ村の自警団に代わり、外周の防衛を自ら買って出ていた。
相手は、村への工作に失敗して撤退中の帝国近衛・リカオン率いる『黒犬』部隊。
蘭のシステムによって逃走ルートを塞がれ、焦った彼らが強行突破を選んだのは明白だった。
「隊長。相手は帝国のトップエリートです。我々のような少数の歩兵小隊では、正面からぶつかれば……」
部下の一人が、緊張に声を震わせる。
「正面からぶつかる必要はねえ。時間を稼げば、こっちの勝ちだ」
信長は、愛用の89式小銃のボルトを静かに引いた。
彼の胸の奥には、常に一冊の古い小説の言葉が根付いている。
『人間は、破滅させられることはあっても、敗北することはない』——海と孤独に立ち向かった老人の物語(老人と海)だ。
どれほど巨大なカジキ(絶望)に引きずり回されようと、決して糸を手放さず、己の全存在を賭けて獲物に食らいつく執念。
「いいか。敵は強力な魔法と身体能力を持ってる。だが、焦っているのは向こうだ。泥水をすすってでも生き残り、奴らの足を一本でも多く削り取れ」
カサリ、と。
前方数十メートルの茂みが、わずかに揺れた。
「——撃てェッ!!」
信長の怒号とともに、闇夜を切り裂くマズルフラッシュが森を照らす。
自衛隊の待ち伏せ攻撃。放たれた無数の5.56mm弾が、撤退中の帝国工作員たちに襲いかかった。
「チィッ! チキュウの伏兵か!」
だが、さすがは帝国が誇る精鋭『黒犬』だった。
彼らは瞬時に魔力の盾を展開し、銃弾の嵐を弾き返しながら、木々の間を跳躍して間合いを詰めてくる。その速度は、チーターすらも凌駕していた。
「前衛、抜かれました! 速すぎるッ!」
「パニックになるな! 距離を保て! 後退しながらの遅滞戦闘だ!」
信長は冷静に小銃の引き金を絞りながら、後退の指示を出す。
だが、工作員の一人が木の上から死角を突き、信長の部下の背後へと凶刃を振り下ろそうとした。
「しまっ……」
ガキンッ!!
甲高い金属音。
信長が、小銃を放り捨てて腰から抜き放った『銃剣』で、工作員の大剣の斬撃を真上から受け止めていた。
「なにっ……!?」
工作員が驚愕に目を見開く。魔法の身体強化もないただの人間が、帝国兵の重い一撃を短剣一本で受け流したのだ。
「よそ見してんじゃねえよ」
信長の身体には、親父(真一)から徹底的に叩き込まれた『北辰一刀流』の理合が染み付いている。
力で受けるのではない。相手の力のベクトルをずらし、刃を滑らせて懐に潜り込む。
剣豪・宮本武蔵が書き残した『五輪書』の実戦哲学。形にこだわるな、勝つために使えるものはすべて使え。
信長は刃を受け流した瞬間の隙を突き、足元の『泥』を工作員の顔面に蹴り上げた。
「グアッ!?」
目潰しを食らい、魔力シールドが揺らいだ瞬間。
信長は身を沈め、渾身の力で工作員の膝の関節を軍靴で踏み抜いた。
ゴキリという嫌な音が森に響き、工作員が崩れ落ちる。
「……生意気な真似を」
だがその直後。
信長の背後から、圧倒的な死のプレッシャーが押し寄せた。
部隊を率いるリカオン本人が、音もなく信長の背後を取り、漆黒の短剣を心臓へと突き出していたのだ。
(速い……ッ!! 躱しきれねえ!)
信長は咄嗟に体を捻ったが、リカオンの刃は無情にも信長の脇腹を深く抉り、鮮血が夜の森に散った。
「ガハッ……!」
「見事な体術だ、チキュウの兵士よ。だが、個人の泥臭い執念だけで覆せるほど、帝国の刃は甘くない」
リカオンは冷徹な眼差しで、膝をついた信長を見下ろした。
彼もまた、無駄なサディズムは持ち合わせていない。敵の息の根を最短で止めるべく、再び刃を振り上げる。
「隊長ォォッ!!」
部下たちが叫ぶ。
脇腹から血を流し、泥に塗れた信長。
だが、彼のその瞳からは、まだ全く光が消えていなかった。
それどころか、血に染まった歯を見せて、ニヤリと不敵に笑ったのだ。
「……だから、よそ見してんじゃねえって言ったんだよ」
「何?」
リカオンが眉をひそめた瞬間。
ポポロ村の方向から、空気を引き裂くような凄まじい破裂音が響いた。
——ドゴォォォォォォンッ!!!
森の木々が吹き飛び、土煙を上げて『何か』がミサイルのような速度で突っ込んでくる。
「な、なんだあの質量は!?」
リカオンが咄嗟に防御態勢をとる。
土煙の中から現れたのは、人参柄のハンカチを首に巻き、ウサギの耳をピンと立てた小柄な少女——ポポロ村村長、キャルルであった。
彼女の足元、特注の強化靴に仕込まれた『雷竜石』が、紫電の雷光をバチバチと放っている。
「うちの村の近くで、随分と好き勝手やってくれてるじゃない!!」
キャルルの手には、鈍い光を放つダブルトンファー。
そして、彼女の背後には、美しい満月がポッカリと浮かんでいた。
満月時の月兎族。
それは、絶対に怒らせてはいけない「理不尽な暴力」の化身である。
「アタシの大事なお客さんに怪我させた落とし前……顎砕いて、全回復させて、もう一回砕いて払ってもらうわよ!!」
泥まみれの特使(信長)が稼いだ時間は、最高の、そして最悪の「援軍」を戦場へと引きずり出した。




