EP 4
特A級の盤上支配
ポポロ村の郊外、鬱蒼とした森の中。
帝国近衛騎士団長リカオン率いる工作部隊『黒犬』は、音ひとつ立てずに撤退ルートを駆け抜けていた。
(……情報が完全に漏れている。監視の目すら感知できなかった。作戦は根本から見直す必要がある)
走りながら、リカオンの脳内はすでに「次の手」を構築し始めていた。
彼に焦りや屈辱はない。失敗はただのデータに過ぎない。この異常事態を速やかに本国へ持ち帰り、皇帝マルクスに報告することこそが、今彼に課せられた最大の責務だった。
「部隊を停止。……これより本国へ、第一級の暗号通信を行う」
森の深部で足を止めたリカオンは、懐から『魔導通信石』を取り出した。
帝国最高峰の魔導士が調整した、絶対に傍受されないはずの軍事用通信機。リカオンが魔力を流し込むと、石は青白く発光し、帝国の通信指令室へと繋がる……はずだった。
『——ザーッ……ピガッ……』
通信石からノイズが漏れる。
そして、帝国のオペレーターの野太い声ではなく、甘いお菓子をかじりながら喋っているような、気怠げな若い女の声が響いた。
『あー、もしもし。こちらチキュウの防衛省。……帝国の猟犬さんたち、聞こえてます?』
「なっ……!?」
訓練された工作員たちが、一斉に息を呑む。
リカオンは表情を変えずに通信石を握りしめた。
「何者だ。なぜ、我が軍の専用回線に割り込める?」
『割り込む? 競合する?……そんな非効率なこと、しませんよ』
女の声は、ふふっ、と微かに笑った。
『競争なんて、同じ土俵に立つ負け犬がすることです。勝つための絶対条件は、誰も知らない全く新しいルールを作って、盤面そのものを【独占】してしまうこと。……ようこそ、私たちが作った「不思議の国」へ』
東京、防衛省の地下深く・特A級サイバー防衛室。
薄暗い部屋の中で、何十枚もの巨大なモニターが、滝のように流れる緑色のコードを映し出している。
その中央に座る早乙女蘭は、ボサボサに束ねた髪を掻きむしりながら、凄まじい速度でキーボードを叩いていた。
机の上には、空になったエナジードリンクの缶と、大量のチョコレートの包み紙が散乱している。
月給3億円で民間から引き抜かれた、日本最高の頭脳。
彼女の目は、血走っていながらも、美しく完璧な『数式』の世界に魅入られた狂気的な輝きを放っていた。
「……既存のインフラで争うから、兵糧攻めなんてされるんですよ。新しい世界の作り方を教えてあげます」
蘭が構築したシステムは、極めて暴力的なイノベーションだった。
アナステシア世界の「魔導通信」は、大気中の魔力波長を合わせただけの、地球で言えば『暗号化されていないアナログ・ラジオ』のようなものだった。
蘭は、自衛隊の早期警戒機やF-35Bのセンサー群を使って大陸中の魔力波長を完全マッピング。それをスーパーコンピュータで一晩のうちにデジタルデータとして解析・暗号化し、日本とポポロ村を結ぶ【独自のデジタル魔力通信網】へと書き換えてしまったのだ。
「泥まみれの現実(六ペンス硬貨)になんて興味ありません。私は、完璧なシステム(月)にしか用はないんです」
カチャカチャカチャッ! ターンッ!
蘭がエンターキーを叩き込む。
その瞬間、日本の防衛システムとポポロ村の監視カメラ網が、完全に暗号化された不可視のネットワークで強固にリンクした。
そして同時に、帝国の通信網に致命的な『バグ』が仕込まれた。
「団長! 通信石が……熱いッ!」
森の中で、リカオンの部下たちが次々と通信石を取り落とす。
彼らの持つ帝国製の魔導具が、一斉に発熱し、制御不能に陥っていた。
『既存の魔力波長は、すべて私がハッキングして再定義しました。……あなたたちが使っているその石ころ、もう私の許可がないと、ただの光るおもちゃですよ』
通信石から響く蘭の声に、リカオンは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「我が国の通信網を……奪ったというのか?」
『ええ。これで大陸中の「見えざる手」は、私たちの「見えざる目(監視網)」の下に置かれました。……猟犬さん。あなたたちが立っているその森の気温、風速、そしてあなたたちの心拍数まで、こっちのモニターには全部筒抜けです』
蘭の言葉を証明するかのように、リカオンの足元を照らしていた月明かりが、突如として不自然に点滅した。
いや、違う。森の木々に仕掛けられていたポポロ村の魔導照明が、日本のAIによって遠隔操作され、彼らの逃走ルートだけをスポットライトのように照らし出していたのだ。
「……まるで、狂ったおとぎ話の迷宮だな」
リカオンは、光に照らされた自らの両手を見つめた。
魔法陣もない。呪文の詠唱もない。
ただ、全く理解の及ばない「異次元の論理」によって、世界の物理法則そのものが歪められ、自分たちがその盤上の駒として弄ばれている。
これまでの戦場の常識が、すべて引っくり返る。
白ウサギの穴に落ちたアリスのように、リカオンは己の理性が崩壊していくような強烈なめまいを覚えた。
『さあ、せいぜい頑張って逃げてください。……チェックメイトは、もうすぐそこですから』
通信がプツリと切れ、森は再び静寂に包まれた。
だが、その静寂は先ほどまでのものとは全く違う。暗闇の奥底から、無数の「機械の目」が自分たちを見下ろしているような、絶対的な監視の恐怖。
「……急ぐぞ。これ以上、この狂った空間に留まるのは危険だ」
リカオンは部下たちに撤退を命じながら、歯を食いしばった。
日本を包囲していたはずの「見えざる手」。だが、その首にいつの間にか、決して切れないデジタルという名の真綿が巻き付けられていたのだ。




