EP 2
沈黙の猟犬
夜の闇の中、音もなく森を駆ける黒い影の群れがあった。
ルナミス帝国近衛騎士団長、リカオン。そして彼が直々に選抜した、帝国軍の汚れ仕事(非合法工作)を担う精鋭部隊『黒犬』である。
彼らの足取りには、草葉を揺らす音すらない。甲冑の擦れる音も、荒い息遣いも、徹底的な訓練によって殺し尽くされている。ただただ、虚を突き、実を避ける。戦いの本質は常に「欺瞞」にあり、姿を見せずに敵の急所を抉ることこそが至高の戦術であった。
(……宇宙の理から見れば、国家の興亡も、個人の命も、波の上の泡のようなものだ)
木々を縫うように疾走しながら、リカオンは冷たい夜風の中で己の心を静かに保っていた。
彼の腹の底にあるのは、熱い忠誠心でも、敵への憎悪でもない。ただ、巨大な歯車の一部として己に与えられた『役割』を全うするという、冷徹なまでの自己規律だった。
今回の任務は、ルナミス帝国と日本の中継地点となっている緩衝地帯——『ポポロ村』のインフラ破壊である。
彼らの目的は村人の虐殺ではない。村の生命線である地下水脈への工作と、日本との連絡を絶つための魔導通信網の切断。つまり、日本への補給線を物理的に断ち切るための「兵糧攻めの仕上げ」であった。
(罪のない村を蹂躙し、力なき者たちから水と食糧を奪う。……これが、地獄に落ちるべき悪行であることは分かっている)
リカオンの脳裏に、平和に暮らすポポロ村の住人たちの顔がよぎる。
だが、彼の足は一歩も鈍らない。
(誰かがこの罪(十字架)を背負わねば、我が国の民が飢えるのだ。ならば、私がその血と泥を被ろう。どれほど魂が汚れようと、国家という器を存続させるための『罰』ならば、私は喜んで甘受する)
正義を振りかざす者は脆い。己の行いを悪だと自覚し、その罪悪感すらも飲み込んで地を這う覚悟を決めた者こそが、戦場では最も恐ろしい猟犬となる。
「……団長。前方にポポロ村の輪郭を視認しました」
部下の一人が、闇に溶け込むような低い声で報告する。
リカオンは静かに右手を挙げ、部隊全体を停止させた。
眼下に広がる小さな村。
月明かりに照らされたポポロ村は、静まり返っていた。自警団の巡回ルートや、村の防衛設備は、事前の諜報ですべてリカオンの頭の中に叩き込まれている。
彼の戦術において、無駄な動きは一切ない。あらゆる状況を事前に計算し、ただ冷徹に、最短距離で目的の首を掻き切るのみだ。
「予定通りだ。第一班は貯水施設へ。第二班は通信塔の魔力基盤を破壊しろ。……誰にも見られるな。音を立てるな。我々は存在しない影だ。……散れ」
リカオンの指示で、十数人の黒い影が、吸い込まれるようにポポロ村の暗がりへと侵入していった。
一方、その頃。
静まり返ったポポロ村の、村長執務室の隣にある小さな財務室。
「……にゃはは。夜風が冷たくなってきたニャ」
ゴルド商会の商人・ニャングルは、薄暗い部屋の中で、ランプの灯りだけを頼りに分厚い帳簿と睨み合っていた。
その耳はピンと立ち、外のわずかな物音も逃すまいと神経を尖らせている。
「白湯をお持ちしました。……少し、お疲れのようですね」
音もなく現れたのは、人狼族の執事・リバロンだった。
彼は純白の手袋をはめた手で、湯気の立つティーカップをニャングルの机に置く。
「おお、サンキューニャ。……リバロン、外の様子はどうニャ?」
「……ええ。おかしな風が吹いています。微かですが、ひどく冷たく、血の匂いを消そうとしている『獣』の風が」
リバロンは、窓ガラス越しに村の暗がりを見つめた。
その瞳の奥には、かつてルナミス帝国の貴族に仕え、その腐敗と権力闘争を内側から見てきた者特有の、底知れぬ冷笑が浮かんでいた。
「帝国軍の非合法部隊……おそらく、近衛のリカオン団長自らが動いているのでしょう。彼らは極めて有能で、そして目的のためには一切の容赦を持たない『機械』です」
「にゃはは……笑えない冗談ニャ。こんな小さな村に、帝国のトップ層が直々に夜這いとはニャ」
ニャングルは、白湯をすすると、ペロリと唇を舐めた。
「でも、想定内ニャ。彼らが『市場の首』を絞めに来た時点で、次はこの村の『物理的な首』を狙ってくると踏んでいたニャ」
ニャングルの手元には、ルナミス帝国の帳簿だけでなく、村の各所に配置された「ある仕掛け」の図面が広げられていた。
商人にとっての情報とは、金貨よりも重い。敵がいつ、どこから、何を狙って動くのか。それを徹底的に監視し、相手の行動を完全に予測できていれば、恐怖すらも計算に組み込むことができる。
「リバロン。罠の準備は?」
「万端です」
人狼の執事は、スッと懐から一枚の銀色の名刺を取り出し、指先で器用に弾いた。
「彼らは有能であるがゆえに、自らの『隠密性』を過信している。完璧な戦術を誇る相手には、その完璧さのまま、用意された舞台(罠)の中央まで歩いてきていただくのが、最も美しい報復というものでしょう」
かつての祖国の傲慢さを熟知する執事の、静かなる反撃の炎。
そして、すべてを数字と情報で掌握しようとする猫耳の商人。
「さあ、見せてもらうニャ。大帝国のエリート猟犬が……チキュウの『最新防犯システム』の前で、どんな間抜けなツラを晒すかをニャ」
沈黙の猟犬たちが、音もなく村のインフラへと忍び寄る。
だが、彼らはまだ気づいていなかった。この素朴な村の至る所に、異世界の特A級AIエンジニアが構築した『絶対的な監視の目』が、瞬き一つせずに彼らを捉え続けていることに。




