第四章 見えざる手と、盤上の漂流国家
『見えざる手』の絞殺
ルナミス帝国、帝都の中心にそびえる白亜の宮殿。
装飾を削ぎ落とした、冷え冷えとした大理石の執務室で、マルクス皇帝は羊皮紙の束に静かに目を通していた。
50歳。白髪が混じり始めたその横顔には、一切の感情が浮かんでいない。
彼の机の上にあるのは、魔導書でも軍事地図でもない。大陸全土の物流、資源価格の推移、そして各商会の資金繰りが記された無味乾燥な「帳簿」である。
「……陛下。極秘裏に進めていた『間引き』の件、完了いたしました。東部流通網の主要な商会は、すべて我が帝国の資本傘下に収まりました」
執務室の暗がりから、近衛騎士団長リカオンが姿を現し、深く頭を下げた。
45歳の歴戦の騎士である彼が纏うのは、武功を誇るような華美な鎧ではない。機能性のみを追求した漆黒の軽装鎧だ。
「ご苦労。……これで、大陸の血流はこちらが握った」
マルクスは淡々と告げ、ペンを置いた。
異世界から突如として現れた、1400万人を抱える『日本』という異常な国家。
帝国軍部では「ただちに武力で蹂躙すべし」という主戦論が沸騰していたが、マルクスはそれを冷酷に、そして完全に黙殺した。
(国家という巨大な生命体は、無駄なエネルギーを消費すべきではない。他者を排除するのは、我々という種を存続させるための『合理的手段』でなければならないのだ)
マルクスの腹の底には、常に冷徹な生存競争の原理が横たわっている。
相手の武力(科学)が未知数である以上、正面から血を流すのは愚かだ。
「リカオン。剣の出番がなくて不満か?」
「……いいえ。私の務めは、帝国の障壁となるものを排除すること。その手段が剣であれ、帳簿であれ、与えられた重荷を背負うのみです」
リカオンの言葉に、マルクスはわずかに目を細め、再び帳簿へと視線を落とした。
「異世界の国は、1400万人という巨大な胃袋と、鉄を食う機械を抱えている。だが、彼らの足元には、それを自給するだけの『土』がない」
マルクスは、大陸地図の日本の位置を指でトンと叩いた。
「我々が直接、彼らの首を絞める必要はない。市場の欲望を利用するのだ。……大陸中の商人に、ほんの少しの『利益誘導』を行う。日本へ流れるはずの小麦や魔力鉱石を、帝国が常に『市場価格の1割増し』で買い上げ続ける」
「……商人は、より高く買ってくれる帝国へと、自然に荷を流すようになりますね」
「そうだ。武力による禁輸措置ではない。あくまで『自由な市場の競争』による結果だ。誰の目にも悪意は見えない。だが、気づいた時には、彼らの周りからは水一滴、麦一粒すら消え失せている」
誰の命令でもなく、個人の利己的な欲望が連鎖することで、巨大な結果を生み出す。
マルクスの思い描く『見えざる手』は、音もなく、そして確実に日本の喉元へと絡みついていた。
彼は窓の外、眼下に広がる帝都の街並みを見下ろした。
誰に理解されなくともいい。この美しい自国の箱庭を守るためならば、彼はどこまでも冷酷なシステムになれた。
東京、防衛省の地下・中央指揮所。
深夜の静寂の中、換気扇の低い唸り声だけが響いている。
「……先生。どうにも、嫌な臭いがします」
出雲艦隊総司令・坂上真一は、手元のハイライトの煙を燻らせながら、眉間を深く揉みほぐした。
向かいのソファでは、与党幹事長・若林幸隆が、灰皿に『ピース』を押し付けている。
二人きりの空間。自然と、二人の口調は故郷の広島弁へと戻っていた。
「ゴルド商会からの報告じゃ。ポポロ村を経由して輸入しとった鉄鉱石と燃料の価格が、ここ一週間でジリジリと跳ね上がっとる。……いや、跳ね上がっとるというより、『買えん』ようになっとる」
「……」
若林は無言で、真一が提示したグラフの推移を見つめた。
それは、暴落や暴騰といった派手な動きではない。まるで真綿で首を絞めるような、極めて緩やかな、だが絶対に下落することのない不自然な右肩上がりの曲線だった。
「総長。お前さんの『負け戦の嗅覚』は、相変わらず鋭いのう」
若林は眼鏡のブリッジを押し上げ、冷たい声で呟いた。
「大戦の時と同じじゃ。我が国は組織が巨大になるほど、前線の『点』の戦いばかりに目を奪われ、国を維持するための『線(補給)』の脆さから目を逸らす悪癖がある」
真一の指摘通り、日本は未知の環境において、食糧と資源の確保をゴルド商会という「外部のパイプ」に大きく依存していた。
平時であれば、それは互恵関係として機能する。
だが、若林の脳裏には、ある一つの冷徹な真理がよぎっていた。
「……これは、自然な相場の変動ではない。悪意を完璧に隠蔽した、人為的な『兵糧攻め』だ」
若林の言葉に、真一の顔が険しくなる。
「帝国が動いたと?」
「ああ。武力で来るかと思えば……こちらの急所を、最も血の流れない方法で突いてきやがった。道徳なき利益の追求は、時にどんな大砲よりも国を破壊する」
若林は立ち上がり、巨大なモニターに映る日本の全体図を見上げた。
「相手のトップは、よほど人間という生き物の『利己的な本性』を理解していると見える。……厄介だな。相手は一度も剣を抜かずに、我が国を餓死させる気だ」
「どうしますか、先生」
真一が、背中の仁王像を粟立たせるように低く唸る。
「戦いとは、火花を散らすことだけではない。……相手が盤面を『市場』に移したというなら、こちらにも相応の戦い方がある」
若林が新しいピースに火を点けた瞬間。
1400万人の漂流国家と、大陸最大の帝国による、音のない総力戦の火蓋が切られた。




