第三章 大田区の奇跡と、希望の合唱
地下からの「呼吸」と、現代兵器の終焉
東京の上空を覆う、半透明の黒いドーム。
グレイグ魔皇国の宰相ルーベンスが展開した広域絶対防壁『ダーク・イージス』は、異世界の空から飛来するあらゆる脅威を完全に遮断していた。
「……すげえな。マジで空に黒い膜が張ってやがる」
「これで、あのアリのバケモノも入ってこれないんだろ? やっとまともに眠れるぜ……」
夜の新宿。
数日ぶりに警戒警報が解除された街角で、市民たちは空を見上げながら安堵の息を漏らしていた。ポポロ村から運び込まれた『太陽芋』の配給で腹を満たし、強固な魔法の盾に守られた1400万人の漂流国家は、転移直後のパニックから嘘のように落ち着きを取り戻しつつあった。
だが。
防衛省の地下深くにある中央指揮所では、全く異なる重苦しい空気が漂っていた。
「——現在、都内全域の駐屯地から、かき集められるだけの小銃弾と砲弾を再配置しています。しかし……」
陸上自衛隊の幕僚が、血の気の引いた顔でメインモニターの数値を報告する。
「先日の銀座での戦闘、および上空警戒での消費により、我が軍の弾薬備蓄は事実上『底』を突きました。特に、主力である89式小銃の5.56mm弾と、F-35Bの25mm機関砲弾は、次に大規模な戦闘が起きれば……数時間で全弾撃ち尽くします」
「……」
出雲艦隊総司令・坂上真一は、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙した。
そして、傍らのソファで『ピース』をくゆらせている与党幹事長・若林幸隆へと視線を向ける。
「若林先生。魔皇国との同盟は我々を救いました。だが……我々の国は今、タマの入っていない銃を構えて、薄氷の上に立っている状態です」
「ああ。ルーベンス宰相の魔法の盾も、永遠ではない。何か一つでも『想定外』が起きれば、この国は一瞬で地獄へ落ちる」
永田町の妖怪の直感。
それは、最も最悪な形で、そして最も無防備な場所から現実のものとなろうとしていた。
東京の地下深く。
世界一の迷宮とも呼ばれる巨大な地下鉄ネットワーク——そのさらに下層、ジオフロントとして開発が進められていた巨大な地下放水路の最深部。
魔皇国のバリア『ダーク・イージス』は、空から東京をすっぽりと覆い隠す半球状の盾だ。
だが、彼らは一つの『致命的な盲点』を見落としていた。
東京という都市は、地球から「地盤ごと」くり抜かれて転移してきた存在。つまり、バリアが覆っていない**『真下(地下の地殻底)』**は、異世界アナステシアの大地と直接繋がったまま、無防備に剥き出しになっていたのである。
——ピチャリ。
静まり返った地下放水路の底に、奇妙な水音が響いた。
——ジュゥゥゥゥ……ッ!!
分厚いコンクリートの壁面が、強烈な酸によって内側からドロドロに溶かされ、ポッカリと巨大な穴が開く。
『……クハハハッ。見事です。本当に、上(屋根)にしか鍵をかけていないとは』
暗闇の穴の奥から、道化師の仮面を被った男——魔人ワイズの歪んだテレパシーが響く。
『魔力を持たない人間たちには、我が死蟲軍が放つ地下からの「呼吸」……この膨大な殺気の這い上がる音すら聞こえない。さあ、行きなさい。私の可愛い蟲たちよ』
カチャリ……カチャカチャカチャカチャッ!!
溶けた壁の穴から、真っ赤な複眼が一つ、二つと現れる。
否、十や二十ではない。
百、千、万——。
銀座を地獄に変えた鋼鉄のアリ『死蟻機』。
天井を這うように進む、巨大なカマキリ型の『死鎌機』。
さらには、コンクリートを食い破りながら進む、全長数十メートルのムカデ型『死百足』。
数十万という死蟲の軍勢が、一切の音を立てることなく、バリアの内側(地下)へと雪崩れ込んでいく。
『あの傲慢な人間たちが誇る、強力無比な鉄の兵器。……あれの弾薬が完全に尽きた時、どんな絶望の顔を見せてくれるのか。ああ、今から楽しみでなりません!』
ワイズの狂気に満ちた笑い声と共に、無限の蟲の足音が地下鉄構内へと這い上がっていく。
「——都内全域の地下ネットワークより、未知の大型魔獣群が多数出現!! 新宿、渋谷の地下コンコース、すでに突破されました!!」
防衛省の指揮所に、悲鳴のような報告が響き渡った。
安全圏だと信じ切っていた東京は、わずか数分のうちに、内側から食い破られる形となった。
「真一! 出し惜しみはなしだ。使える全火力を以て、即座に都民を救出せよ!」
「了解した! 全軍、兵装解除! 地下鉄の入り口を完全に封鎖しろ!」
若林の怒声を受け、新宿・歌舞伎町のメインストリートに展開した陸上自衛隊・第1師団が、這い出てきた死蟻機の群れに対して凄まじい弾幕を張った。
——ダダダダダダダダダダッ!!!
「撃て! 撃ち続けろ!! 奴らを絶対に避難所へ近づけるな!!」
坂上信長が、89式小銃の引き金を絞り続ける。
16式機動戦闘車の105mm砲が火を噴き、空からは平上雪之丞のF-35Bが、25mmガトリング砲で死鎌機をネオン看板ごと粉砕する。
圧倒的な火薬の暴力。
だが、倒した蟲の死骸を乗り越えて、さらに奥から絶望的な数の赤い複眼が湧き出してくる。十匹倒せば、百匹が湧く。
「隊長! ダメです、数が……数が多すぎます!!」
信長は暗視ゴーグル越しに、ヘルメットのHUDに表示された『部隊残弾数』の数値を睨みつけた。
緑色だったゲージが、恐ろしいスピードで減少していく。
相手は、弾薬を消費させるためだけに放たれた無限の捨て駒。
撃たなければ、背後にいる数万の市民が死ぬ。
撃てば、日本の命綱である『弾薬』が完全に尽きる。
そして——。
上空で機首を引き起こしたF-35Bのコックピット。
雪之丞がトリガーを引いた瞬間、モーターが空回りする無機質な音が響いた。
——ガカカカカカッ……カチャ。
「……嘘だろ。バルカン、残弾ゼロ……ッ!」
地上でも、信長の小銃が、重い金属音を立てて沈黙した。
——カチャッ。
「……隊長。自分も、残弾ゼロです」
「重機関銃、タマ切れです……ッ!」
弾倉が空になった音が、新宿のストリートに次々と連鎖していく。
目の前には、まだ無傷の死蟻機の群れが大顎を鳴らしながら、ジリジリと距離を詰めてきていた。
日本の「現代兵器」という名の最強の盾が、完全に削り切られた。
1400万人の命のカウントダウンが、静かに『ゼロ』を刻んだ瞬間だった。




