第ニ章 死蟲の強襲と、反撃の経済外交
迫り来る影と、束の間の平和
漂流国家となった日本の首都・東京。
その中心部にある代々木公園の避難所には、これまでの絶望とパニックが嘘のような、温かくスパイシーな香りが漂っていた。
「はい、お次の方。熱いから気をつけてくださいね」
陸上自衛隊の野外炊具号から、湯気を立てるカレーが次々と市民の紙皿に注がれていく。
具材は、魔法ポーチによるピストン輸送でポポロ村から届けられた異世界の特産品だ。出汁をたっぷり吸い込んだ『肉椎茸』と、口の中でホロホロと崩れる甘い『太陽芋』。
「……うまっ! なにこれ、お肉じゃないのにすごいコクがある!」
「このお芋、すっごく甘いよママ! 食べたら体の中がポカポカしてきた!」
怯えきっていた子供たちが笑顔を取り戻し、疲労困憊だった大人たちの顔に確かな活力が戻っていく。
未知のエネルギーが内包された異世界の食材は、現代人の疲れ切った細胞を劇的に回復させていた。1400万人の胃袋を襲った最初の「飢餓の恐怖」は、自衛隊と政治家たちの手によって見事に退けられたのである。
同じ頃、永田町の与党幹事長室。
窓から高層ビル群を見下ろす特等席で、猫耳の商人・ニャングルは長い尻尾を逆立てて震えていた。
「……頭おかしいで。なんやねんこの鉄の塔の群れは。これを魔法も使わんと建てたやと……? アンタらの国、狂っとるわ」
ヘリで東京に招待されたニャングルは、1400万人という途方もない人口と、それを支える巨大なコンクリートジャングルを目の当たりにし、商人としてのキャパシティを超えかけていた。
そんな彼に対し、若林幸隆はソファに深く腰掛けながら『ピース』の煙をくゆらせた。
「狂っているのはお互い様さ。……それで? ゴルド商会としての『査定』はどうだったね」
若林の問いに、ニャングルはハッと我に返り、テーブルの上に並べられた「日本の工業製品」に飛びついた。
100円ライター、ノック式ボールペン、ステンレス製の腕時計、そして市販の風邪薬。
「査定もクソもあるか! こんなもん、全部が国宝級のオーパーツや! 特にこの『カチッ』てやったら火が出る小さな箱! これだけで、エルフの火炎魔導具の市場が完全に崩壊するで!」
ニャングルは興奮で顔を紅潮させ、魔石の算盤を弾き飛ばさんばかりの勢いで計算を始めた。
「レートの決定や! アンタらの国のこの『ライター』1個につき、銀貨10枚……いや、太陽芋と肉椎茸を馬車5台分と交換したる! 薬や時計のレートはさらにその100倍や!!」
「いいだろう。食料に加えて、君たちが使っている『魔石』も大量に要求する。我が国の発電システム(インフラ)の新たな動力源として研究網に乗せるためにな」
若林はニヤリと笑い、ニャングルと固い握手を交わした。
日本の「高度な工業力・技術力」と、アナステシア世界の「魔法資源・食料」が、完璧なレートで結びついた瞬間だった。
(これで経済が回る。1400万人の命脈は繋がった……!)
若林の目に、確かな勝算の光が宿る。
誰もが、この束の間の平和と、未来への希望を信じて疑わなかった。
——だが。
彼らはまだ、このアナステシア世界に潜む「本物の悪意」を理解していなかった。
東京の地下深く。
地下鉄・都営大江戸線の六本木駅付近、地上からおよそ40メートルの暗闇の中を、二人の東京メトロの作業員が懐中電灯の明かりを頼りに歩いていた。
「地盤のズレは確認できないな。……しかし、すげえカビの臭いと、硫黄みたいな異臭がするぞ」
「転移した時のガス管の漏れじゃないですか? 早く点検終わらせて、俺もあの美味い配給カレー食いたいっすよ」
若い作業員がぼやきながら、トンネルの壁面をライトで照らした。
その時である。
——ジュゥゥゥゥ……ッ。
不気味な、何かが焼け焦げるような音が地下道に響いた。
「……ん? なんだ今の音」
作業員がライトの光を音の方向——分厚い鉄筋コンクリートで覆われたトンネルの壁面に向ける。
次の瞬間、二人は自分の目を疑った。
「な、なんだよこれ……壁が、溶けてる……?」
数百年は耐えられるはずの強固なコンクリートの壁が、まるで熱したフライパンの上のバターのように、緑色の粘着質な液体によってドロドロに溶け落ちていたのだ。
そして、その溶けた大穴の奥から、カチャリ、カチャリと、金属が擦れ合うような不気味な足音が近づいてくる。
「おい、誰かいるのか……!?」
若手作業員が恐る恐る穴を覗き込んだ瞬間。
暗闇の中から、赤い複眼がギラリと不気味に発光した。
「ギィィィィィィャアアアアアッ!!!!」
鼓膜を突き破るような金属的な金切り声と共に、穴の中から『それ』が飛び出してきた。
体長3メートル。黒光りする強固な鋼鉄の装甲と、強酸を滴らせる巨大な顎を持った、蟻型の生体兵器——死蟲王の尖兵『死蟻機』である。
「う、うわぁぁぁぁっ!?」
「バケモノだ!! 逃げろ!!」
作業員たちが絶叫を上げて走り出すが、死蟻機の放った緑色の強酸液が、無情にも彼らの足元のコンクリートを、鋼鉄のレールごとドロドロに溶かし去っていく。
東京の最深部。
1400万人の「極上の魂」を喰らうための地獄の宴が、暗闇の中で静かに、そして確実に幕を開けようとしていた。




