第5話前半 初公判が始まる
【阿久津視点】
事件発生から3ヶ月後——。
事務所のデスクの上、検察から送られてきた『起訴状』の控えと『不起訴処分通知書』のコピーが並んでいる。
予想通りの結果だ。
検察官の三宅は、メディアの炎上と世論の圧力にすっかり腰が引け、浅野を「起訴」、そして被害者兼被疑者であった香織を「嫌疑不十分により不起訴」と処理した。
検察から「浅野氏を起訴する」との電話連絡を受けた直後、俺はすかさず東京地方裁判所へ『保釈請求書』を提出した。
罪状は不同意性行罪と重いが、浅野は初犯であり、身元も確実で会社も休職中。何より「事実関係を争う姿勢」を明確にしている。検察側は当然「証拠隠滅の恐れがある」と保釈反対の意見書を出してきたが、罪証認否の段階で「記憶がない」という客観的事実は動きようがない。
裁判官との保釈面接を速やかに済ませ、両親に工面させた保釈金200万円を無事に納付。逮捕から数えて実に二週間以上、浅野はやっと拘留所から釈放された。
もっとも、自宅マンションはマスコミや野次馬に割れているため、今は栃木にある実家に身を寄せさせ、終日引きこもらせているがね。
「……さて」
俺は弁護士バッジの表面を親指で軽く撫で、黒いスーツの襟元を整えた。
両陣営の駒は盤上に揃い、逃げ道はすべて塞いだ。いよいよ実験の火ぶたを切る刻だ。
東京地方裁判所、第100号法廷。
初公判が始まる。
傍聴席は満席。週刊誌の記者や人権派を自称するジャーナリスト、果ては暇つぶしの野次馬どもでぎゅうぎゅうに埋め尽くされている。視線の矢が刺さるような熱気の中、裁判官三名が法壇に着席した。
冒頭の手続きが進み、被告人席の浅野が蚊の泣くような声で「記憶がありません……襲っていません」と認否を述べた。
小さな声だったが、傍聴席の記者たちが一斉にペンを走らせるカリカリという音が法廷内に低く響く。
裁判長が「弁護人、認否は」とこちらへ視線を向けた。
俺は椅子からゆっくりと立ち上がった。あえてワンテンポタメを作り、黒いスーツの襟元を正す。
傍聴席の熱気、検察官の殺気、裁判官たちの品定めするような視線。そのすべてが自分一人に集中するのを全身で味わいながら、俺は通る声で口を開いた。
「裁判長。被告人の認否に先立ち、弁護人より、本件公訴提起そのものの著しい不法性について異議を申し立てます」
静まり返る法廷に、俺の通る声が響く。向かいの検察官席で、三宅検事の眉根がぴくりと跳ね上がった。
「まず問いたい。本件が起訴される前——警察か検察の内部関係者しか知り得ない厳重な捜査情報が、なぜ特定の週刊誌やネットメディアへ漏洩したのでしょうか?」
俺は傍聴席の記者どもを一瞥し、くすりと口元を歪めた。
「国家機関による重大な守秘義務違反であり、世論を誘導して被告人を社会的に抹殺しようとした不当な便宜供与です。公訴提起の前提となる捜査そのものに、著しい違法行為が存在する。……まあ、言ったところで警察や検察のリーク癖が治るとは微塵も思っていませんが、一言申し添えておかなければ気が済みませんので」
法廷内から「……確かに。これは検察の失点だな」「…検察の遵法意識はどうなっているんだ」と囁き声が漏れる。俺が仕込んだそのサクラたちの声をきっかけに、三宅検事に傍聴席からの厳しい視線が注がれる。
まあ今回のは十中八九検察ではなく警察の大野刑事からのリークだろうが、連帯責任ってとこだな。ククッ、三宅検事、あなたもリークの一報を聞いた時、刑事たちへの怒りに打ち震えたんでしょうね。
俺は検察官席に視線を戻し、三宅検事に向け意地の悪い笑みを深めた。
三宅検事は顔を真っ赤にし、怒りで卓上のボールペンを握りつぶさんばかりの勢いで立ち上がろうとした。
俺はそれを右手を軽くかざして制し、法壇へ向かってゆっくりと一歩踏み出した。
「そして、本題です」
一瞬で、表情から嘲笑を消し去る。冷酷なまでに理路整然とした声で、法壇の裁判官たちをまっすぐに見据えた。
「同一の状況、同一の泥酔状態、そして『お互いに当時の記憶がない』という同一の客観的証拠でありながら——捜査機関は、男性である浅野氏のみを起訴し、女性である香織氏を不起訴処分としました」
言葉を一つひとつ、法廷の空間に叩きつけていく。
「これは、先に声を上げたのがどちらかという捜査機関の便宜上の都合、ひいては『性別』のみを根拠とした不当な差別であり、公訴権の著しい濫用です。憲法第14条——法の下の平等に明確に違反する不適法な公訴提起であります」
俺は両手を広げ、朗々と宣言した。
「本裁判所におかれましては、実体審理に入るまでもなく、刑事訴訟法338条に基づき——直ちに本件を『公訴棄却』とすべきである!」
ガガガッ、と三宅検事が勢い余ってパイプ椅子を引きずる音が響いた。
傍聴席からはどよめきが巻き起こり、中央の裁判官が眼鏡の奥の目を大きく見開く。
そう、これだ。これが見たかった。
司法の矛盾を突きつけられ、システムそのものがフリーズする瞬間。
興奮で背筋がゾクゾクと痺れるのを感じながら、俺は困惑する法廷の中心で、心ゆくまで歪んだ笑みを深めた。




