第4話後半 【被害者兼被疑者 香織視点】
【被害者兼被疑者 香織視点】
あの日、警察に駆け込むまでの記憶——。
スマホの激しい振動で目が覚めた時、私は見知らぬホテルのベッドに一人で寝ていた。
重い頭を押さえながら画面を見ると、通知が2件。
1件は、今日ランチを約束していた友人の真央から。『今どこー? もう着くよ!』というメッセージ。
やばい、今何時!? ここどこ!?
私は血の気が引く思いで服を着直し、慌ただしくホテルを飛び出した。
もう1件のメッセージを開く。
『昨夜はありがとうございました』
相手は、先日のイベントで一緒になった会社の浅野さんだった。
『こちらこそありがとうございました。またお仕事でご一緒することがありましたらよろしくお願いします』
電車に飛び乗り、慌てて定型文のようなお礼を返す。
ランチの席で真央に事の顛末を話しているうちに、途切れていた昨夜の記憶が、濁流のように脳裏に呼び起こされていった。
そうだ……私は浅野さんと飲んでいたんだ。
でも、私はワンナイトなんて絶対にするような女じゃない。真央だって「香織がそんなことするわけないじゃん!」と言ってくれている。私には付き合っている彼氏だっているのだ。
浅野に無理やり酔わされたんだ。もしかしたら、お酒に何か薬でも入れられたのかもしれない。……許せない。
——あのランチの後に警察へ駆け込んでから、10日ほどが経っただろうか。
「香織さん、渋谷署の大野だけど。ちょっと確認したいことがあるから、もう一度署まで来てもらえるかな?」
朝一番にかかってきた刑事の大野さんからの電話。
私はてっきり、浅野の逮捕や処分が決まったという報告なのだろうと思い、どこか安堵した気持ちで渋谷警察署へと向かった。
案内された取調室のドアを開ける。
だが——駆け込んだ日も、調書作成のために呼ばれた日も、いつも親身に親のように話を聞いてくれていた大野さんの表情は、なぜか酷く硬かった。パイプ椅子に座ると、テーブルの上に見慣れない書類がドンと置かれる。
「大野さん……これ、何ですか? 浅野の起訴が決まったんですか?」
大野さんは重苦しい溜め息をつき、私と目を合わせようとせずに言った。
「香織さん。……あなたに対する『不同意性行罪』の告訴状が、浅野の弁護人から正式に出されました」
「……は?」
頭の中が真っ白になる。意味が滑り落ちていって、言葉として理解できない。
「浅野側の主張はこうです。『自分こそ酒に泥酔して抵抗できない状態だった。同意がないまま性行為に及ばれたのは自分の方だ』と」
「は……? なに、言ってるんですか……? 私が、浅野を……襲った……!?」
あまりの滑稽さに、喉の奥から引きつった笑いが漏れた。
意味が分からない。冗談でしょう? 私は被害者だ。酒に酔わされて、拒絶もできないまま被害に遭ったのに。
「冗談ですよね!? そんなの理屈が通るわけないじゃないですか! 私は被害者ですよ!?」
「落ち着いてください!」
大野さんが声を荒らげた。だが、その声にはいつもの頼もしい力強さが欠片もない。
「いいですか香織さん。警察としてもこんな無茶苦茶な告訴、認めたくはなかった。だが法手続き上、告訴状が正式に提出・受理された以上、あなたを『被疑者』として取り調べないわけにはいかないんです」
「ひ、被疑者……? 犯人扱いってことですか……!?」
「今から君に、被疑者としての権利——黙秘権の説明をします。……ここにサインしてください」
スッと差し出された『被疑者取調べ用』の書類。
そこに黒々と印字された【被疑者:香織】という文字を見た瞬間、心臓が肋骨を突き破るほどの勢いで跳ね上がり、視界の端からグニャリと歪んでいった。
「嫌……嫌嫌嫌! なんで私が犯人なの!? 私が被害者なのに! なんでっ……!」
過呼吸を起こし、酸素が脳に届かない。激しい眩暈と悪寒が身体を襲う。
「香織さん、落ち着いて!」
大野さんが差し伸ばしてきた手を、私は狂ったように振り払った。
「触らないで!!」
警察が私を守ってくれると思っていた。正義は、絶対に私の側にあると思っていた。
なのに、気づけば私は「性犯罪の容疑者」として、冷たく湿った取調室のパイプ椅子に座らされていた。
頭の中で、一度も会ったことのない男——浅野の弁護士の不気味な嘲笑が聞こえた気がして、私は床に激しく胃液を吐き散らした。
「そ、そうだ、示談…」
汚れた口もそのままになんとかそう言いかけたところで、大野が私の吐瀉物をものともせずに私の肩を掴み、強く吠えた。
「あんな悪徳弁護士の揺さぶりに屈しちゃダメだ! 示談なんて絶対にしちゃいけません。あいつらはあなたを恐喝して、裁判を諦めさせようとしているんです!」
大野の熱を帯びた声が、遠くで響く。
恐怖と頭痛で意識が遠のき、視界の端から黒いモヤが広がっていく。冷や汗が頬を伝い、大野の顔すらぼやけて見えなくなった。
その薄れゆく意識の中で、大野の叫び声だけが耳の奥にこびりついて離れない。
「僕たちが守ります! だから、絶対に引き下がっちゃダメだ……最後まで戦いましょう!」
……戦う……?
遠のく意識の渦中で、私の心に冷たい疑問が浮かび上がる。
戦うって、何……?
私を守るために、戦うのはあなた達警察でしょ……?
なんで……私が戦うの……?
相手弁護士と……私が戦うの……?
返事を出せないまま、私の意識は完全に途切れた。




