第3話後半 【検事 三宅視点】
【検事 三宅視点】
『——阿久津弁護士ですか!? 東京地検の検事の三宅です! あなた、警察に一体何を吹き込んで告訴状なんて出させているんですか!!』
受話器に叫びながら、俺——東京地方検察庁の検察官・三宅は、怒りでデスクの上のボールペンを力任せに握り潰しそうになっていた。
『やあ三宅検事、お電話ありがとうございます。何を吹き込んだだなんて人聞きの悪い。僕は依頼人の正当な権利に基づいて告訴状の作成を補助しただけですよ』
電話の向こうから聞こえてくるのは、どこまでも平然とした、そしてどこか楽しげな阿久津の声だ。
『正当な権利? 酒に酔って記憶がないのはお互い様だから男側も被害者だなんて、法解釈の屁理屈もいいところでしょう! こんな無茶苦茶な告訴で捜査機関を混乱させて、一体何のつもりですか!』
『おや、屁理屈ですか? 泥酔状態で意思決定能力を欠いていた点において、男女で法的な扱いに差を設ける合理的理由はありません。憲法14条の法の下の平等を無視されるおつもりなら、公判でも徹底的に争いますが?……まあ、そちらが「双方嫌疑不十分」で無難に処理されたいなら、それもまた一つの選択ですがね』
『……っ!』
阿久津はくすりと鼻で笑うと、『では、取り調べでお忙しいでしょうから』と一方的に電話を切った。
ツー、という無機質な切断音が響く。
「……変質者め」
俺は受話器を激しく黒電話の台座へ叩きつけた。
数十分後。東京地方検察庁、刑事部の小会議室。
目の前の長机には、二冊の事件記録が並んでいた。
一冊は、被疑者・浅野和彦に対する『不同意性行』の事件記録。
そしてもう一冊は、昨日警察から持ち込まれた、浅野から被害女性・香織に対する『不同意性行』の告訴状とその捜査資料だ。
「……で、どうするつもりだ、三宅くん」
向かいに座る上席検事の副島が、額の汗をハンカチで拭いながら、深々とため息をついた。二人揃って、もう一時間近くこの二つの記録を前に頭を抱えている。
「どうするもこうするも……こんなものをいちいち真面目に立件していたら、泥酔した男女の事件はすべて相打ちになってしまいます」
俺はこめかみを指で揉みほぐしながら、吐き捨てるように言った。
「だが、警察が告訴状を受理して送検してきた以上、我々も手続上、女性側を被疑者として調べざるを得ん。……この国選弁護人、阿久津という者だったな」
「ええ……」
庁内で阿久津という弁護士の過去について聞き回った。
ある同僚は「いつ見ても欠伸ばかりしていて、露骨にやる気のないそぶりを見せる怠惰な弁護士だ」と切り捨てていた。だが別の同僚は、青ざめた顔でこう語っていた。「あいつは判決公判の時、裁判官が判決文を読み上げている間、ずっと口元をニタニタ歪めて笑っている。まるで実験の観察結果を待つ子供みたいで、不気味な男だ」と。
そして阿久津がその「不気味な笑み」を浮かべている時は決まって、検察側が絶対に勝てると思っていた公判の雲行きが怪しくなり、どちらに転ぶか分からなくなっている時だという。
司法の場を、自分の知性を誇示するための「ゲームの盤面」としか思っていない。神聖な裁判所で遊んでいる狂人。……変質者め。
「で、落とし所はどうする」
副島がパイプ椅子の背もたれに体重をかけた。
「……仕方ありません。双方ともに泥酔状態で当時の意思疎通や同意の有無を客観的に立件するのは困難、として『双方嫌疑不十分での不起訴』で処理しましょう。浅野も釈放、女性側も立件せず。これ以上、あの狂った弁護士のゲームに付き合う必要はありません」
「そうだな。それが一番穏当だ。双方不起訴で決裁を回しなさい」
二人で頷き合い、ようやく重苦しい方針が決まった——その時だった。
ノックもそこそこに、若手検事補が血相を変えて会議室に飛び込んできた。
「三宅検事! 大変です!」
「なんだ、ノックぐらいしろ」
「申し訳ありません! ですが……明日発売の週刊誌のネット版で、本件に関する記事が出ます! 題目が出回っていまして……『性加害の男が被害女性を逆告訴、悪徳弁護士の二次加害』と!」
「……は?」
頭の中が真っ白になった。
「すでにSNS上でトレンドに入り始めています! 人権派の弁護士やフェミニスト団体が『検察の対応を注視する』と騒ぎ始めていて……!」
ガタッ、と副島が立ち上がった。顔から血の気が引いている。
「な、なぜメディアに漏れているんだ!? まだ検察で処理を決める前だぞ!?」
「……所轄の刑事が、功名心かストレス発散かで記者に流したんでしょう」
俺は奥歯を思いっきり噛み締め、拳を握りつぶした。
怒りで全身の血液が逆流しそうだ。
あの馬鹿刑事どもが……! 守秘義務違反でお前らから先に起訴してやろうか……!!
「双方嫌疑不十分で不起訴」という穏当な逃げ道は、たった今、完全に潰れた。
明日になれば、世論という名の巨大なモンスターが検察庁を取り囲む。この状況で不起訴にしようものなら、「検察はセカンドレイプを容認した」「隠蔽した」と大炎上し、国会でも追及されかねない。
もう、引くことはできない。浅野を起訴し、法廷の場で白黒つけさせるしかなくなったのだ。




