第3話前半 もう逃げられない
【阿久津視点】
事務所の片隅に置かれた型の古い複合機が、カタカタと乾いた機械音を立てて用紙を吐き出した。
ウィーン、とトレイに滑り込んできた紙面を、俺はパイプ椅子に深く腰掛けたまま手に取る。
時計の針を見れば、16時を過ぎたところだ。
手元に流れてきた紙面を眺める。頭には『取材依頼および事実確認のご連絡』と大々的に印字されていた。送り主は、有名ネットメディアを傘下に抱える大手出版社・週刊誌編集部。
『浅野和彦氏の不同意性行容疑における弁護活動において、被害女性に対する逆告訴を行われた件について——』
『本日17時までに以下の質問項目へご回答をいただけますようお願い申し上げます。期日までに回答なき場合は「回答なし」として記事を掲載いたします』
回答期限まで、あと1時間。
実効性のある回答など端から期待していない、典型的な「返答の機会を与えたが無視された」と記事に書くためのアリバイ作りだ。
締め切り1時間前のファックスなんて、マスコミがやるいつもの下品で古典的な手口じゃないか。やれやれ。
「……ククッ」
思わず口元から、漏れ出た笑いを抑えきれなかった。
大野だな。刑事課のあのベテラン刑事が、警察にとって都合の良い正義のストーリーをそっくりそのまま記者に売ったのだ。
自分が調書に書いた被害者の涙という物語を台無しにされた怒りと、俺への不快感。それが混ざり合って、警察官としての守秘義務すらあっさりと投げ捨てたわけだ。…やると思ってたよ、大野刑事。
普通なら、国選弁護人として受けた案件で自分の事務所が炎上し、社会的なバッシングに晒されれば大ピンチと思うのだろう。普通の弁護士なら「名誉毀損だ! 報道被害だ!」と青ざめて騒ぎ立てる場面だ。
だが、俺にとっては逆だ。
願ってもない、最高の追い風だった。
この件における俺にとっての「最悪の結末」——それは、世間体ばかりを気にする腰の引けた検察官が、「当事者双方とも泥酔して記憶がなく、罪証の立証が困難」として、双方嫌疑不十分で不起訴にして事件を幕引きしてしまうことだ。
そんなことをされてしまえば、ここまで司法のバグを突き、盤面を整えてきた俺の苦労が水の泡になる——まあ、当事者である浅野にとってはそれこそが最大の救いであり、平和な日常へ戻るための最高の結末なのだろうがね。
だが、この記事が出ればどうなる?
明日にはSNS上のフェミニストや人権派弁護士たちが一斉に狂喜乱舞し、「被害者を二次加害する悪徳弁護士と、反省のない卑劣な被告」としてトレンドを埋め尽くす。PV数に飢えたまとめサイトが群がり、世論に過敏な政治家どもも自分の支持率アップのために「捜査機関の厳正な対応を求める」などと一言申さずにはいられなくなるはずだ。
そうなれば、検察はもう逃げられない。
世論の監視という巨大なプレッシャーの中で、「事件を有耶無耶にして双方不起訴」という日和った選択肢は完全に潰れる。世間に背中を押された検察官は、浅野を起訴し、法廷というリングに引きずり出さざるを得なくなるのだ。
まあ、この記事が出れば我が阿久津法律事務所には「人道的にどうなんだ!」「悪徳弁護士!」という、溢れんばかりの正義感に満ち満ちた勇者様たちからの抗議電話が殺到することだろう。
だが、抜かりはない。
こんな時のために、事前に自動AI応答サービスを電話回線に導入しておいた。
どれだけ電話回線を埋め尽くそうと、何万件の電凸が来ようと、俺は夕方に自動整理されたAIの音声レポートとテキストを流し読みするだけでいい。せいぜい、感情を持たないAI音声相手に、喉が潰れて血を吐くまで怒鳴り散らしていただければ結構だ。
そうだ。サービスとしてAI音声のキャラクターは「涙声のか弱い若手女性スタッフ」にしておこう。
電話の向こうの勇者様たちの嗜虐欲をたっぷり満たしてあげられるように、ね。
「さて……どれ、早速試運転がてらAIレポートでも読んでみるか」
パソコンの画面を操作すると、早速数件の着信がAIによって文字起こしされていた。
……お。この着信履歴は……。
…これはしっかり準備してから折り返さないとな…。
…それで、次の着信は…と。
『東京地方検察庁』
ククク。来た来た。警察から報告を受けた担当検事が、泡を吹いて電話をかけてきたらしい。
今すぐ折り返してやるとしよう。俺は爪の手入れのために持っていたヤスリをデスクに置き、受話器を取り上げた。
番号を押し、呼び出し音を鳴らす。二秒と経たずに相手が怒気を含んだ声で出た。
「もしもし。先ほどお電話いただきました、阿久津法律事務所の阿久津です」
『——阿久津弁護士ですか!? 東京地検の検事の三宅です! あなた、警察に一体何を吹き込んで告訴状なんて出させているんですか!!』
受話器の向こうから、今にもスピーカーが破れそうな激しい怒声が響き渡った。
……受話器を耳から少し遠ざける。まったく、随分とお怒りのご様子だ。
俺は口元を歪め、空いた右手でデスクの上のペンをくるくると器用に回しながら、どこまでも愉悦に満ちた声で応答を始めた。




