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第12話後半 【最高裁判所長官 長野視点】

【最高裁判所長官 長野視点】

大法廷での口頭弁論を終え、重々しい扉が閉じられた。

最高裁判所長官である私・長野をはじめとする十五人の裁判官は、長官執務室の巨大な楕円卓を囲んでいた。重苦しい沈黙が部屋を支配する中、最初にその静寂を破ったのは学者出身の川西裁判官だった。

「法理に忠実であるべきだ。弁護人の主張通り、本件の手続きは憲法十四条に明白に違反している。双方同条件で一方のみを起訴するなど、手続きの公正を著しく欠く。破棄自判——無罪、あるいは公訴棄却と判断せざるを得ない」

川西が眼鏡の奥の目を光らせて語気強く言い放つと、向かいに座る元判事の女性裁判官・安村が、鼻で笑うように嫌味たっぷりに言い返した。

「相変わらず純粋な学者の先生らしい、浮世離れしたご意見ですこと。ところで川西さん、参考人の杉野教授はあなたの長年のご友人でしょう? まさかとは思いますけれど、私情が入っていらっしゃいませんか?」

「なッ……! 何を馬鹿な! 私は誇りある最高裁判所裁判官として、法と良心に従って発言している! 侮辱も大概にしなさい!」

「あら、事実を申し上げただけですわ。今この社会情勢のなかで無罪判決など出してみなさい。性被害を訴える女性たちの声を司法が踏みにじったと、世界中からバッシングを浴びますよ。街宣車がここを取り囲み、海外のメディアからも『日本の司法は後進的だ』と叩かれる。その責任を、あなた一人で取れるとおっしゃるの?」

「論点をすり替えるな! 感情や世論の顔色を見て判決を曲げることこそが、司法の自殺だと分からんのか! 法の番人たる最高裁がポピュリズムに屈してどうする!」

川西がテーブルを叩いて立ち上がり、安村も冷ややかな目で睨み返す。二人の怒号が室内に響き渡り、円卓のあちこちから溜息と囁き声が漏れた。

「まあまあ、お二人ともそのくらいに……。声を荒げても結論は出ませんよ」

そう言って間に入ったのは、元検事の裁判官だった。彼は手元の資料をパラパラとめくりながら、事もなげに呟く。

「私は無難に上告棄却でいいと思うのですがね。今まで通りの運用ですよ。捜査機関が現場の状況を総合的に判断して起訴した。それで終わりでいいじゃないですか。何を今さら大騒ぎする必要があるんです?」

「あなた元検事だからって検察の肩を持つのはやめなさい!」

「肩など持っていませんよ。ただ『現実的な着地点』を提案しているんです。今まで何千、何万と積み上げてきた判例と捜査慣行を、たかが一弁護士の屁理屈でひっくり返してみなさい。明日から全国の警察と検察の現場は大混乱だ。再審請求の嵐になりますよ?」

「だからと言って、あの弁護人の『司法は性差別主義者』という指摘に、我々は判決文でどう答えるおつもりですか!?」

若い方の裁判官が悲鳴に近い声を上げた。

「『双方記憶がない』『客観的証拠ゼロ』という前提を認めた上で有罪を維持したら、最高裁が『証拠がなくても女性の言い分だけで男を処罰して良い』とお墨付きを与えたことになる! そんな判決文、法理として成立しませんよ! 我々は歴史の笑いものだ!」

「じゃあ無罪にするの!? 『泥酔して記憶がなければ、後から同意がなかったと訴えても無効』なんて判断を出したら、明日から性加害者が野放しになるのよ!?」

「事実関係の話ではない! 手続きと平等の問題だと言っているんだ!」

「その手続きが社会の安全を守っているんでしょうが!」

喧々諤々。罵詈雑言に近い応酬が繰り広げられ、合議は完全に紛糾していた。

……静まりたまえ、君たち。

私は深く椅子に身体を沈め、こめかみを強く指で押さえた。痛むのは頭だけではない。胃の奥が焼きごてを押し当てられたように熱かった。

悩ましい。あまりにも劇薬が過ぎる。

もし、「破棄自判(無罪・公訴棄却)」を選んだ場合——

司法が自ら「性別による捜査の不平等」というバグを公式に認めたことになる。これまで確定した同種の性犯罪判決すべてに波及し、法秩序は底から瓦解するだろう。裁判所の外を取り囲むフェミニスト団体や政治家、メディアは大炎上し、「司法は性加害者を擁護した」という猛バッシングによって、最高裁の信頼は地に堕ちる。

かといって、「上告棄却(有罪維持)」を選んだ場合——

あの杉野教授の意見書をはじめとする憲法学者たちの正当な論理を、ぐうの音も出ない形でロジカルに論破することなど不可能だ。「最高裁は法理を捨て、世論の暴力とポピュリズムに屈した」という歴史的汚名を、日本の司法史に永久に背負い続けることになる。

無難な判決などない。どちらを選んでも地獄だ。

両手で顔を覆いながら、私は心の中で深く戦慄していた。

あの阿久津という弁護士は……最初から勝とうなどとしていない。

奴の狙いは依頼人の救済でも、正義の実現でもない。

司法という巨大なシステムそのものに消えない毒を注ぎ込み、我々十五人に「法理の死」か「システムの崩壊」かの二者択一を迫り、高笑いしているのだ。

どちらを選んでも、日本の法秩序には二度と修復できない巨大な亀裂が入る。

「……本日はここまでとします。各自、もう一度論理を整理してください」

重苦しい声で宣告すると、裁判官たちは不満気な顔で、しかし疲弊しきった様子で立ち上がった。

二ヶ月後の判決日に向けて、答えの出ない地獄の合議は、なお延々と続いていくのであった。

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