第12話前半 存分にお悩みください
【阿久津視点】
事件発生から丸四年——。
「まったく。法務省だけでなく文科省まで動かすとは…大したものだな」
最高裁大法廷での口頭弁論を控え、控室の重厚な革張りソファーで杉野が吐き捨てるように言った。その目には、憲法学者としての功名心と、自分をここに引きずり込んだ俺への激しい恨めしさが入り交じっている。
……文科省……? 何の話だ……?
学術会議の予算を削るとでも脅されたのか、それとも大学の補助金カットでもチラつかされたのか。まあいいか。思考の無駄だ。適当にヘラヘラと笑い、首を縦に振っておく。
「いやあ、それにしてもここまで来れたのはまさに杉野先生の学術的威信があってこそですよ。感謝しています」
「白々しい……! 私のキャリアに傷がついたらタダじゃおかんぞ」
ブツブツと呪詛を吐く杉野を無視し、立ち上がって重厚な窓枠越しに下を見下ろした。
警備員が敷いたパイロンの向こう側に、黒山のようなマスコミと群衆が蠢いている。革命党のシンパとして有名なチンピラ風の男が、これまた新興保守政党の弁士として最近名を上げてきたガタイのいい男と胸倉を掴み合って小競り合いをしていた。カメラのフラッシュが、まるで遠くの雷光のように断続的に弾ける。
クク、盛り上がってるな。たかが酒席の泥酔劇が、国家のシステムを揺さぶる一大事だ。
「開廷します」
重苦しい木製のドアが開き、大法廷へと足を踏み入れる。
高い天井、壁面に施された重厚な彫刻、そして息を吸うことすら躊躇われる独特の静寂。
原告席の浅野を見る。キョロキョロと室内を見回している。自分が国家的な思想戦のダシにされていることに、もはや現実感が無いという様子だ。
傍聴席の端には、帽子を深めにかぶった香織の姿もあった。革命党の過激派に囲まれ、「不当な性被害の象徴」として祭り上げられた哀れなヒロインは、自分の撒いた火種が爆発したスケールに怯え、小さく震えている。
向かいの検察席。
最高検から引っ張り出されてきた厳めしい顔の老検事が腕を組み、その隣で東京地検の三宅が青白い顔で資料の端を指で弾いていた。かつて俺を「変質者」と蔑んだ正義の検事・三宅の目は落ちくぼみ、極限まで追い詰められていた。クク、あの時大野刑事のマスコミリークさえなければ、こんなことにはならなかっただろうにな。
「——参考人、杉野教授。証言台へ」
裁判長の声に応じ、杉野が渋々といった風体で前に出る。俺はゆっくりと立ち上がり、マイクの前へ進み出た。
もはや、結局のところあの夜に二人のどちらがより積極的にホテルへ歩いていたかなどという「事実関係」はここに至っては論点にならない。
「杉野参考人に伺います。本件のように、双方が同等に泥酔し記憶を失っている状況下で、一方の申告のみに基づき他方のみを起訴する捜査慣行について、憲法上の観点からどう評価されますか」
杉野は胸を張り、マイクに向かって滔々と語り始めた。
「明確な憲法14条違反です。法の下の平等は、手続きの公正さによってのみ担保される。同一の客観的状況下において、性別という恣意的な基準で被疑者と被害者を選別することは、法執行の平等を著しく害し、検察権の公訴権濫用に他なりません」
完璧な模範解答だ。杉野のプライドと功名心を利用し、最高峰の憲法理論を法廷に響かせる。
すかさず、検察席から最高検の老検事・東条が静かに立ち上がった。威圧感のある低い声が法廷に響く。
「異議があります。検察の公訴権行使は、個別の捜査結果と被害申告の真実性を総合的に評価してなされたものであり、恣意的な選別など存在しない。弁護人の主張は、個別の事件の具体的妥当性を無視した極論に過ぎません」
東条の横で、三宅が必死に頷いている。だが、その瞳には焦燥が滲んでいた。
俺は薄く笑みを浮かべ、東条に視線を向けた。
「総合的な評価、ですか。では検事にお聞きしたい。本件において『被害申告の真実性』を裏付けた客観的証拠とは何ですか? 防犯カメラ? DNA?……違いますよね。どちらも『酒に酔って記憶がない』という事実以外、何も残っていない。にもかかわらず、なぜ彼女の申告は『真実』とされ、我が依頼人の逆告訴は『捏造』として弾かれたのか?」
俺は一歩、検察席の方へ踏み出した。
「検事。あなたがたが『総合的評価』と呼んでいるものの正体は、単なる『女性が被害者』というだけの、お粗末なジェンダーバイアスではないのですか?」
「くッ……!」
三宅が思わず机を叩いて立ち上がりかけたが、東条が手で制した。東条の額にも冷や汗が伝っている。検察側は論理で打ち返せていない。客観的証拠がない以上、「捜査の初動でどちらの性別を被害者と見なしたか」という慣習を認める以外にないからだ。
見上げるような高い雛壇に並ぶ、15人の裁判官たちの顔を見渡した。
最高裁長官の眉間に、深い皺が刻まれる。他の裁判官たちも、互いに視線を交わし、手元の記録と杉野の意見書を往復させている。
「双方泥酔、双方記憶なし。客観的証拠ゼロ。この条件下で一方のみを罪に問うことが許されるなら——日本の司法は、性差別主義者であることの証明に他ならない!」
法廷のあちこちから、小さく息をのむ音が聞こえた。
傍聴席の最前列で、香織の肩がビクッと跳ねる。検察席の三宅は顔を真っ赤にし、怒りと侮辱に唇を震わせていた。
言ってやった。この厳粛な最高裁大法廷で、彼らが最も口にしたくない『最悪のタブー』を。
さあ、最高裁の裁判官の皆様。
システムを維持するために『性差別主義者で何が悪い』と居直るか。
それとも、己の法理論に従って『法の矛盾』を認め、これまで積み上げてきた判例と世論を大混乱に陥れるか。
15人の偉い偉い裁判官の皆様。
どうかその優秀な頭脳を極限まで振り絞って、存分にお悩みください。




