第11話後半 【憲法学者 杉野視点】
【憲法学者 杉野視点】
去ったか……。
重厚な木製のドアが閉じられるのを見届けると、私は窓辺へと歩み寄り、ブラインドの隙間から階下の敷地を見下ろした。初夏の日差しの中を、阿久津という弁護士が颯爽と歩いていくのが見える。
「ふふ……ふははっ」
思わず口元から笑みが漏れた。我ながら、迫真の演技だったな。
阿久津のような、自分の知性を過信している人間ほど「実は私怨で動いている」というようなドロドロとした『裏の顔』を提示してやると、コロリと信じ込む。知的な動機よりも、人間的な醜い欲望の方が本音だと錯覚するのだ。
同期への嫉妬? くだらない。最高裁判事に就任した川西とは、学生時代からの掛け値なしの親友だ。あいつは努力に努力を重ねてあの地位にたどり着いたのだ。嫉妬などひとかけらもあるはずがない。
私はね、阿久津のように「学者」という人種を自分の法廷闘争の道具として利用しようと企む、不躾で不遜な実務家どもを困らせるのが大好きなのだよ。
依頼をあっさり引き受けて期待させ、期日ギリギリになって「やはり法理的に書けませんでした」と梯子を外してやる。青ざめる阿久津の顔を想像するだけで酒が進む。せいぜい、永遠に届くはずのない意見書を正座で待ち続けるがいい。
——だが、その数日後。
「杉野教授! 本気ですか!? あの悪名高い阿久津弁護士に協力するなんて……見損ないました!」
研究室のドアが勢いよく開き、ゼミ生が血相を変えて飛び込んできた。その手に握られていたのは、今週発売のゴシップ週刊誌だ。
誌面には、キャンパスをバックに、満面の笑みで大学を去っていく阿久津の姿が大きく掲載されていた。見出しには『泥酔レイプ弁護団に強力助っ人! 憲法学の権威・杉野教授が立ち上がる』と踊っている。
盗撮されていたのか……?まったく、迂闊な男だ。
ゼミ生に弁明する暇もなく、固定電話がけたたましく鳴り響いた。学長室からの呼び出しだった。
重苦しい空気の学長室で、学長は苦痛に顔を歪めながら言った。
「杉野君……文科省の役人から直々に連絡があってね。例の意見書の件を取り下げなければ、来年度の私学助成金を大幅にカットするとチラつかされたよ。頼む、辞退してくれ!」
文科省まで巻き込んだ、国家総ぐるみでの圧力か……。
だが、困ったことになった。ここで私が「依頼を辞退します」と発表すれば、『マスコミと文科省の圧力に屈して意見書を取り下げた腰抜け学者』となってしまう。
私がやりたいのは「阿久津を裏切って困らせること」であって、「圧力に屈服すること」じゃあないんだよ。それじゃあ楽しくない。阿久津を悔しがらせるどころか阿久津に「まあまあ、仕方ないですよね」なんてフォローされかねない。
嫌な汗を流しながら研究室に戻った夕方、今度は私のプライベートの携帯電話が震えた。表示された番号を見て息をのむ。法務省事務次官からだった。
『……杉野先生。単刀直入に申し上げます。最高裁の川西先生も、最近は持病の心臓が悪化しておられましてね。そろそろご勇退いただき、次の学者枠には、ぜひとも杉野先生を推薦したいと考えております』
「……な……っ!?」
絶句した。
言葉の裏にある「意図」が、悪寒とともに脳髄を駆け巡る。
もし私がこのタイミングで意見書の辞退を発表するか、もしくは毒にも薬にもならない意見書を出せば、法務省は「功績」として川西を早期退職させ、その椅子を私に与えるということだ。
親友である川西が積み上げてきたキャリアが奪い取られる。そして、水面下の薄汚い取引で川西の努力の結晶を奪い取るその卑劣漢の名は…『杉野』、この私だと!?
なぜだ。なぜ、私がただの悪戯心で引き受けただけの話が、こんな事態に——。
その時、デスクの電話が再び鳴った。嫌な予感しかしない。震える手で受話器を取る。
『やあ杉野先生。そろそろ、意見書を書かざるを得なくなった頃かと思いまして』
耳に飛び込んできたのは、あの粘りつくような阿久津の声だった。
「お前……まさか……どうやってこんな手を……!」
『何の話です?』
受話器の向こうで、阿久津が愉悦に満ちた低い笑い声を漏らした。
『まあ、私も長年法曹界にいる人間だ。法務省の若い連中と雑談する機会くらい、あるんですよね』
法務省の官僚に「杉野教授は川西判事に対して猛烈に嫉妬している」という噂を流すことくらい、造作もないということか。
背筋に、氷を叩きつけられたような寒気が走った。
バレていた。いつからだ?最初は騙しきれていたはずだ。
私が「私怨で動く人間」の振りをしていたことも、後から裏切って困らせようとしていたことも。すべてを見抜いた上で、私が「意見書を書く」という唯一の道しか選べないように完璧に詰みをかけていたのだ。
…悪魔。この男は、本物の悪魔だ……!
「……分かった。書けばいいんだろ、書けば!」
電話を叩きつけるように切ると、私は激しく上下する胸を押さえ、震える指でノートPCの電源を入れた。
こうなったら、書くしかない。
国家権力の圧力に屈した腰抜けと思われることも、親友の職を脅かすことも避ける方法はただ一つ。最高裁の判事どもがぐうの音も出ないような、完璧で至高の憲法適合性批判意見書を完成させることだけだった。
私はキーボードに手を置き、憲法学者としての持てる全ての知性を振り絞り、怒りと戦慄を込めてタイピングを始めた。




