第11話前半 学者という人種は
【阿久津視点】
地裁での判決から半年後。事件発生からは、すでに三年半の歳月が流れていた。
開くまではダラダラと引き延ばされた東京高等裁判所での控訴審は、たった一日で終了した。
「控訴棄却」
控訴審判決の報せは、傍聴にすら行かず、タクシーの中で受けた弁護士仲間からの電話で聞いた。
まあ、そうだろうな。
高裁の裁判官に、憲法判断なんて大層な芸当ができるわけがない。「地裁判決の事実認定に誤りなし」と、前例を踏襲してハンコを押すだけのルーティンワークだ。端から期待などしていない。
さあ、いよいよ本番——最高裁判所へ向けた準備だ。
だが、最高裁の壁は分厚い。年間数千件と持ち込まれる上告事件のうち、口頭弁論が開かれるのはごくわずか。その多くは法廷すら開かれず、「上告棄却」の三行半でゴミ箱に放り込まれる。
最高裁に弁論を開かせ、あの十五人の老人どもを法廷に引きずり出すには、相応の「劇薬」が必要だった。
俺は俺をつけ狙う蠅どもが東京高等裁判所に集まり祝杯を上げる今日という日を利用して、都内にある有名私立大学の、研究棟の一室を訪ねていた。
「——というわけです。ぜひ杉野教授に、本件に関する憲法適合性の鑑定意見書を賜りたく参りました」
応接セットの硬いソファに深く腰掛け、俺はどこまでも恭しく頭を下げた。
社会への影響だの、世論の批判だの、政治家からの圧力だのを常に気に病まなければならない小市民な裁判官どもとは違う。学者という人種は、己の研究分野にだけは嘘をつけない不器用で業の深い生き物のはずだ。
『双方泥酔・双方記憶なし』という完全対比の状況下で、単に性別だけで一方が刑事罰を受け、一方がお咎めなしとなる。これが憲法第14条の「法の下の平等」に適合するなどと、憲法学者を自称する者なら口が裂けても言えないはずなのだ。
書類の山に埋もれたデスクの奥で、杉野教授は老眼鏡のフレームを押し上げた。白髪交じりのボサボサ頭に、ヨレヨレのチェックシャツ。偏屈そうな顔つきで俺の持ち込んだ資料を一通りパラパラと捲ると、あっさりと口を開いた。
「ああ、いいですよ。書きましょう」
「……はい?」
思わず、口がぽかんと開いてしまった。
……あまりにも、あっさり過ぎる。
百戦錬磨の憲法学者が、世間をこれほど大炎上させているセンシティブな事件の意見書を、二つ返事で引き受けるだと……?
想定では、当然のように回答を濁されるはずだった。
『世間の目がねえ』だの『大学の立場が』だのと保身の言い訳を並べ立てる老学者に対し、俺は『この問題から目を背けることは、先生の専門とする憲法学への裏切りではないですか?』とかなんとか詰めて、逃げ場を塞いでから無理やり首を縦に振らせるつもりだったのだ。
そのためのロジックも、煽り文句も、完璧に準備してきたというのに。
嫌な予感が脳裏をよぎる。
何か裏があるのか……? 表向きは引き受けておいて、提出期日ギリギリになって「やはり書けない」と梯子を外す気か。あるいは、検察側に買収でもされていて、意図的に筋の悪い不利益な意見書を書くつもりなのか……。
思考の歯車を猛烈なスピードで回転させる。
相手の「イエス」という回答一つで、これほど足元が揺らぐとは。
まったく学者という人種は…日頃の相手とは違うクセ者ばかりだ。
念のため、他の憲法学者にも予防線として依頼を出しておくか……。えーと、東大のあの教授と、京大のあの名誉教授……保険の掛け方を計算していると、杉野がパイプ椅子をギィと鳴らして背もたれに体重をかけた。
「いやね、阿久津さんは当然ご存じでしょうけど。我々憲法学者にとって、キャリアの頂点と言えば最高裁判所裁判官の『学者枠』なわけですよ」
「……ええ、存じ上げておりますが」
杉野は不機嫌そうに鼻を鳴らし、デスクの上の湯呑みをズズッとすすった。
「その学者枠にさ……大学の同期だった奴が選ばれたんですよ。同じゼミで、昔からロクに論文も書かずに政治家と法務省のケツばかり追いかけてた男がね」
……ん?
杉野の目が、乱々とした内なる嫉妬と憎悪でギラリと光った。
「……ムカつくんですよねえ、あいつ」
「……ぶはっ!」
吹き出してしまった。我慢できずに、吹き抜けるような爆笑が口から漏れた。
法理への情熱? 憲法の守護者としての正義感? 司法の矛盾を正す使命感?
……全部違った。
ただの、「出世した同期へのドロドロとした嫉妬」だった。
最高裁判事に上り詰めた同期のツラに、己の書いた至高の憲法理論という名の泥を叩きつけ、法廷の場で赤っ恥をかかせてやる——と。
どうやら俺は、最高の「狂人」を味方に引き入れたらしい。




