第1話後半 【被疑者 浅野視点】
【被疑者 浅野視点】
俺は都内のイベント企画会社に勤める、ごく普通の32歳の会社員だ。
付き合って3年になる恋人もいる。そういえば最近、雑誌のウェディング特集をリビングにさりげなく置かれたりして、「そろそろ結婚したい」と暗にアピールされていたっけ。そんな、ありふれてはいるが穏やかで幸せな日常を送っていた。
あの日までは。
大規模なイベントをつつがなく終えた夜、発注元である大手広告代理店の仕切りで打ち上げが催された。
そこに彼女——香織さんという女性がいた。キャスティング会社の社員で、俺より少し年下だったが、同じ「出入り業者」同士、妙に気が合って会話が弾んだ。現場での苦労話や業界の愚痴を言い合い、正直、めちゃくちゃ楽しかった。
一次会が終わり、まだ話し足りないなという流れで二人で近くのバーへ行った。
……そこから先の記憶は、ほとんどない。
目が覚めると、見覚えのないホテルのベッドの上で、隣に香織さんが寝ていた。
うわ、やっちゃった……。
強烈な頭痛と、恋人に対する猛烈な罪悪感が襲ってきた。俺は寝ている彼女を起こさないよう静かに着替え、逃げるようにホテルを出た。
昼過ぎ、恐る恐る「昨夜はありがとうございました」とだけLINEを送った。
しばらくして、「こちらこそありがとうございました。またお仕事ご一緒することがありましたらよろしくお願いします」と丁寧な返信が届いた。
心底、ホッとした。ああ、お互いに触れ合わない「大人の一夜」として割り切ってくれたんだな、と。
悪夢が始まったのは、それから一週間後のことだった。
平日の真っ昼間、会社でデスクワークをしている最中に、見知らぬ番号からスマホに着信が入った。
出ると、低い男の声だった。
『警視庁渋谷署の者ですが。浅野和彦さんですね。先週の金曜日、渋谷区内のホテルで女性と過ごされましたね? 今から少し署までお越しいただけますか』
警察? なんで? 頭が真っ白になった。
『……あの、何かあったんでしょうか』
『電話ではお答えできません。任意ですが、来られないならこちらから伺います』
警察署の取調室に連れて行かれた俺を待っていたのは、「不同意性行罪の容疑」という信じがたい言葉だった。香織さんが、泣きながら警察に被害届を出したというのだ。『お酒を大量に飲まされ、意識がない状態のまま強引にホテルへ連れ込まれた』と。
「そんな! 乱暴なんてしてません! 彼女だって同意して……!」
「同意があった証拠は? 彼女は記憶がない状態で無理やりされたと言ってるんだよ!」
警察官に怒鳴られ、身ぐるみ(ベルトや靴紐まで)を剥がされ、留置場へ放り込まれた。
狭くてカビ臭い畳の部屋。冷たいパイプベッド。鍵の開く音。
会社には「体調不良で休む」と嘘の連絡を入れさせてもらったが、無断欠勤同然だ。恋人からの着信が何度かあっただろうが、警察に没収されたスマホに触ることすら許されない。
逮捕されてからの三日間、いつ起訴されて人生が終わるのかという恐怖と取調べの圧力で、ろくに飯も喉を通らず、胃液を吐き続けるしかなかった。
そして今、国選弁護人として目の前に座っているのが、この阿久津という男だ。
「……『こっちこそ不同意性行だ』と訴えたらどうなるか、知りたくありません?」
目の前で、男が妙にウキウキした言い方で言葉を発した。
……は?
何を言っているんだ、この人は……?
裁判のことなんて何も知らない俺にだって、直感的にわかる。世間の風向きや昨今のニュースを考えれば、こんな状況で男側の言い分なんて通るはずがないのだ。
だが阿久津は、男女で扱いを変えるのは憲法違反だの、法の下の平等だのと、早口で論理を捲し立てている。
恐る恐る顔を上げると、アクリル板の向こうで、阿久津が悪魔のような——まるで珍しい虫の足を一本ずつもぎ取って実験する子供のような笑みを浮かべていた。
この男…俺の人生を、まるでゲームのように…。
俺には法律の知識なんてない。
他の弁護士に心当たりもないし、貯金も大してない。
他に選択肢があるかを調べたくても、手元にスマホがない。
「……僕、どうなっちゃうんですか」
かすれ声で呟く俺に、阿久津は朱肉の押印マットをアクリル板の隙間から滑り込ませてきた。
「戦いましょう。無実を証明するために」
言われるがまま、俺は差し出された書類——『告訴状』の末尾に、震える右手の親指を押し当てた。
朱肉の赤い汚れが、自分の血のように見えた。




