第1話前半 知りたくありません?
「はい、阿久津法律事務所の阿久津です。……国選弁護人、ですか。……はい。今から伺います」
ガチャリ。受話器を置く。
国選弁護人か……。まったく面倒な仕事だ。報酬は雀の涙、手間ばかりかかって稼ぎの邪魔でしかない。
やれやれ。
罪状は、数年前に新設・改正された刑法177条、不同意性行罪。
法曹関係者なら誰もが「欠陥のある条文だ」と分かっている。だが、どれだけSNSで「この法律は冤罪を生む」とドヤ顔で呟いたところで、幾ばくかの「いいね」がつく程度で現実は何ひとつ変わりはしない。おかしな奴らに粘着されるというおまけ付きで。俺はそんな不毛で暇な真似をするつもりは毛頭なかった。
警察署の地下、取調室の奥にある面会室。
アクリル板で仕切られた狭い部屋の空気は、冷たく、不快に湿っていた。
被疑者の浅野和彦、32歳。
逮捕されてから三日三晩、まともに眠れていないらしい。目の下には酷い熊をつくり、取調べの恐怖と将来への絶望で、今にも胃から酸っぱいものを吐き出しそうな顔をして震えている。
まあ、俺にはさして興味もないが。
「——あー、浅野さんね。国選で担当になった弁護士の阿久津です」
俺はパイプ椅子に深く腰掛け、隠そうともせず欠伸を噛み殺した。
「国から割り振られた案件なんでね。まあ、手短にいきましょう。不同意性行の容疑。相手の女性は『酒を飲まされて意識がない状態のまま性的行為をされた』と告訴状を出している。浅野さん、これ、やったの?」
「やってません! 暴力も脅迫も絶対に……!」
「いやいや、新法の177条ね。『アルコール等の影響で意思決定が困難な状態』に乗じるのも不同意性行罪になるんですよ。で? 相手の女性とはどういう関係?」
浅野は必死で捲し立てた。仕事の打ち上げの二次会だったこと。バーでかなり飲んだこと。気づいたらホテルにいて、翌週突然警察から電話がかかってきたこと。
「示談……示談で穏便に済ませることはできませんか? 会社にバレたら僕の人生、終わりなんです。お金ならなんとか払いますから……!」
俺は浅野の必死の訴えをBGMに、「爪、ちょっと伸びたな……」などと考えながら聞いていた。
「示談ねえ。相手は被害感情が強そうだし、検察も起訴する気満々だよ。国選の報酬じゃ、そこまで粘り強く示談交渉する気にならないんだよね……」
浅野は絶望に打ちひしがれ、ガックリと頭を垂れた。
「僕だって……僕だって、何も覚えてないんです……」
「ん?」
爪を弄んでいた俺の手が、ピタリと止まった。
「……今、なんて言った?」
「え……? あ、いや、僕もお酒に強くないので、かなり泥酔していて……。ホテルに行ったあたりの記憶が、途切れ途切れで……」
「君『も』、覚えてないの?」
これは…。
さっきまでの猛烈な眠気が、一瞬でどこかへ吹き飛んだ。
パイプ椅子がギィと音を立てる。俺はゆっくりと身を乗り出し、アクリル板の至近距離まで顔を近づけた。
自分の目が内側から爛々と血走り、バキバキに開かれていくのが感覚でわかる。
「浅野さん。君自身も酒で正常な判断ができない状態だった?」
「は、はい……たぶん……」
「記憶がないなら、『君が女性を襲った』んじゃなくて……『泥酔した君が、女性にホテルへ連れ込まれて、一方的に性的行為を強要された』可能性だってゼロじゃないよね?」
浅野はパチクリと目を明滅させた。
「え……? いや、でも、訴えられているのは僕で……」
「……浅野さん……」
「……?……はい……」
「……知りたくありません?」
「……え?」
「……『こっちこそ不同意性行だ』と訴えたらどうなるか、知りたくありません?」
「……は?」
「いや失礼。こちらの話です」
俺は手元のメモ用紙を叩いた。思考の歯車が恐ろしいスピードで噛み合い、回転を始める。
双方ともに泥酔し、意思決定能力を失っていた。そして双方ともに記憶がない。……条件は完全にイーブンだ。
「なぜ警察や検察は『女性側の言い分』だけを真に受けて浅野さんを勾留しているんだ?」
「それは……女性が先に被害を訴え出たからで……」
「そんなものは捜査機関の便宜上の都合でしかない」
ダメだ。口元のニヤけが抑えきれない。
「ねえ、浅野さん。こんな手はどうですか?『実はこちらこそ不同意性行の被害者でした』と、相手の女性を逆に刑事告訴するんです」
「は……? 逆に……告訴……?」
「双方とも『無理やりされた』と主張し合っているのに、警察や裁判所が女性側の言い分だけを信用してあなたを起訴するなら……それってあきらかに、憲法14条——法の下の平等に違反してますよねぇ?」
くそっ。笑いそうだ。……ここで腹抱えて笑ったらドン引きされて逃げられる。落ち着け俺。
「警察はパニックになるでしょうね! 受理を拒否して逃げようとするかもしれない。検察は頭を抱えますよ! 双方を起訴するのか、双方を不起訴にして逃げるのか。……どうなるんでしょうねえ」
目の前の浅野は完全にたじろぎ、引きつった顔で固まっている。どん引きというレベルではない。だが、もうこの熱量は誰にも止められない。
「さあ浅野さん! 国選の規定なんてどうでもいい、僕がとびっきりの告訴状を書いてあげるから指印を押してください! 日本の司法のバグを突きに行きましょう!」




