第10話前半 控訴します
【阿久津視点】
事件発生から、丸3年。
東京地方裁判所の第100号法廷で、地裁の判決が下された。
「主文。被告人を懲役5年に処する」
裁判長である神保の声が、静まり返った法廷に低く響く。
執行猶予なし。実刑。
求刑の7年からは引かれたものの、初犯の単独犯に対する量刑としては、相変わらずポピュリズムにどっぷりと浸かった狂った判決だった。
理由が淡々と読み上げられていく。
予想通り、俺が突きつけた憲法14条の議論には深く触れず、「捜査機関の裁量の範囲内」「公訴権の逸脱とまでは認められない」という、いつもの金太郎飴みたいな定型文で綺麗に逃げて見せた。
判決が言い渡された以上、浅野の保釈効力はその場で失われる。この後、彼は再び拘置所へと拘束されることになるのだ。
地裁での敗北は折り込み済みの通過点とはいえ、やるべき作業は山積みだ。高裁への控訴手続きの書類確認、ご両親との話し合い、提出用の保釈請求の再準備……。
「……よし」
俺は理由の読み上げが終わったタイミングで、さっさと手元のファイルを鞄へ片付け始めた。そして、手続きの抜け漏れがないよう、思いついたままごく普通に、平然と声を張った。
「あ、控訴します」
「……え?」
法廷の空気が、ピタリと凍りついた。
見れば、神保裁判官が大きく息を吸い込み、朗々と何かを語り出そうと胸を張った姿勢のまま固まっている。
……あ。
神保がまさにその瞬間、情感たっぷりに説諭(いわゆる裁判官ポエム)を話そうとしていたところだったらしい。
一番いいところのタイミングを完全に外してしまったようだ。神保はアワアワと口を動かした後、一瞬で顔を真っ赤にしてこちらを猛烈に睨みつけてきた。
いや、狙ったわけではないのだ。本当に。
ただ事務的に「控訴の意思表示」をしただけで、説諭に入ってるなんて知らなかったのだ。ごめんごめん。悪かったよ。
神保はプルプルと肩を震わせながらも、どうにか気を取り直し、涙ぐむ記者席を意識したキザな説諭を最後まで読み上げた。…なんか途中バーの深夜営業そのものに苦言を呈していたように聞こえたが…いや、そんなはずはないか。
神保は説諭を読み終えた後もなお納得いかないという表情のまま、苦虫を潰して最後に吐き捨てた。
「……被告人は、控室へ」
法廷の脇にある狭い控室。
浅野はすっかり慣れてしまった手つきで両腕を出し、刑務官によって手錠と腰縄を装着されていた。
まあ……ここまで来たんだ。耐えてくれよ……
そう心の中で願いながら、俺はポケットからスマホを取り出し、画面をチラリと覗き込んだ。
……ほう。
画面に表示された数字を見て、思わず眉が跳ね上がった。
これはこれは……まったくの想定外だ。
「浅野さん。お父様にお願いしていたクラウドファンディングですが……保釈金どころか、今後の裁判費用を賄っても十分過ぎるほどの額が集まっていますよ。速やかに保釈請求の準備をしますね」
俺が画面を見せながらそう告げると、手錠をかけられた浅野は、驚きに目を見開いた後、小さく、だがしっかりと頷いた。
野党『革命党』が本格参戦してきたこと——それが皮肉にも最大の引き金となったのだろう。
奴らはマスコミ各所にシンパを潜り込ませ、昔から事あるごとに露骨な世論誘導とメディアコントロールを繰り返してきた。そのやり口は今や、この国の国民から潜伏的かつ猛烈に嫌われ、鬱積した不満のマグマと化していたのだ。
今回のクラウドファンディングに集まった異常な支援額は、まさにその「世論の揺り戻し」の表れだった。
表向きは、マスコミやネットの正義漢どもによって、俺も浅野も「悪徳弁護士と無反省な性加害者」として徹底的にメディアリンチされている状況だ。
だが——その影で、この歪んだ構図に違和感を抱き、密かに支援の拳を握りしめてくれている人間たちが確かに存在する。
この数字が、過酷な戦いの中で摩耗しきっていた浅野や、その父親の折れかけた心の支えになってくれるなら、俺にとっても願ってもない展開だ。
ふふ。
政治利用しようとしゃしゃり出てきてくれた革命党のセンセイ方には、心から感謝しなきゃな。
……にしても。
画面の支援者一覧をスクロールしながら俺は目を細めた。
一人で一気に百万円以上投じている人間がいるぞ。
入金はほんの数分前。支援額は…167万円。
何者だ……? ただの物好きな富豪か……?
いや、それにしては随分キリの悪い数字だ。
何かの暗号か?俺たちに恩を売って、この事件や裁判を後で何かに利用しようと画策しているのかもしれない。
父親にコンタクトを取ってくる者には今まで以上に用心せねばな。




